2012年12月25日火曜日

お産は、産婦と助産者だけの方がいいのか

私の初産と二度目のお産とを例にとってみると、二度とも陣痛促進剤の点滴を受けた。しかし受けたことは何も、問題ではない。陣痛促進剤の点滴誘導をするお産は珍しくないからである。しかしそのような場合でも、ほとんどの産科医や助産婦は陣痛微弱をきちんと認識しており、子宮口が全開大になる前(陣痛が本格的にくる前)から、産婦に「それいきめ、やれいきめ」といきませてはいけないことを、わかっている。早くから、無理やりいきめば、胎児に不必要な無理がかかり、産婦も力をつかい果たしてしまう。実際、二度目のお産で出会った助産婦たちは、十分研究しており、まったく問題は起こらなかった。

しかし、初産の時は、最初からやみくもに「ウーン、ウーン」といきませられ、陣痛促進剤も両腕から点滴した。長い目茶苦茶な陣痛との格闘のすえようやくおそって来た本格的な陣痛に、本当は私かここで腹圧を加えて、細い軟産道に入ったわが子を早く押し出し、酸欠状態から解放してやらねばならなかったのに、疲労しきった私の身体はどうにもそれをしてやることができなかった。結局、午前九時からいきむこと六時間、午後三時過ぎ、吸引分娩装置の助けによってようやくお産を終えた。これなどは、勉強不足の産科医と助産婦が引き起こした人工難産だといえる。

あの時、私かもっとよく、「産んだ人」から自分が「産む気」で、お産のいろんなことを聞いていたら、しっかりお産の本質をみきわめ、本質に従って産む側からよく調べていたら、たとえあのような助産者たちに出会っても、もう少し自衛することができたのではないかと悔やまれる。長男を泣き声も出せないほどの状態に、追い込みはしなかっただろう。

いまなら、私は子どもたちにしっかりと心身両面から伝えてやれる。「お産ていうのは、こうなって、ああなって、こういう生理機構にもとづいて始まるのよ。それに合わせてその時はこのようにしていれば自然に乗り越えられるし、いきまずにいられなくなったら、それは、胎児がこうなっている時なんだから、まずがまんする。なるべく力をためておいてそれでがまんできなくなったら、その時は子宮口が開いて赤ちゃんも一刻も早く外へ出たがっている時だから、こうして全力をあげていきむのよ。それまで力を使っちゃだめよ」などと、微に入り細にわたって相手が頭の中にお産をイメージできるまで、知っていることはすべて伝えられる。

だから、私は、産婦がお産知識を持たない方がよいという考えには賛成できない。自分で真の出産の姿が心の中にイメージできるまで、しっかり調べた方がいい。誰がいなくても、一人ででもお産をできるくらい知っておきたい。そして、可能な限り危険回避の努力は続けたい。私と子どもと二人の生命がかかっているのだから。お産は、夫の出産への参加が産婦にとって有効であることは、もういまでは常識だと思うが、改めてその効用を説明したい。

2012年9月12日水曜日

カウンセラーは母性と父性の両方の役割が必要

カウンセラーは母性と父性の両方の役割をそなえていないとできませんから、西洋のカウンセラーたちは、日本人とは逆に母性の習得に努力していますが、やはり男女で多少の違いはあるようです。

まず受容するところからはじめる場合には、カウンセリングの最初のころは、女性のほうが向いているかもしれません。ただ、女性がインテリジェンスを研ぎすますと、むしろ母性を忌避する傾向があります。

頭のいい女性ほどその傾向が強いようですが、クライエントの理性も感情も引っくるめた全体に対処しなければなりませんから、あまり理性にかたよりすぎるといいカウンセリングは望めません。

要は、本気でやっているかどうかだと思います。親、教師、カウンセラーなどが本気で取り組んでいるかどうかは、子ども、生徒、クライェントたちは敏感に察知します。

ごまかしはききません。そして、本気でやっている限り、そうとうに厳しくやっても通るものです。そういう中で、親も教師もカウンセラーも、つねに自分自身を訓練していく必要があるでしよう。

2012年8月23日木曜日

「拉致問題」を正常化交渉の条件

これは、二つの面で正しい判断であった。まず、政治家の合意はあくまでも民間人による合意である。政府がそのまま受け入れるべきではない。もし、条件や留保も付けずに受け入れると、政治家の合意に日本政府が従っているとの誤解を与えることになる。第二に、正常化を急いでいるのは北朝鮮側である。そうなら、交渉再開に条件を付けるべきは日本側であって北朝鮮側ではないのだから、自らの交渉カードを交渉前に捨てるべきではない。特に、日本人拉致問題の解決にはこうしだカードがないと交渉にもならないのである。

こうして、A課長はいつのまにか「拉致問題で、国民の納得を得られる何らかの前進」を、事実上の条件として北朝鮮側に示したのだった。北朝鮮側の担当者は、日本の政治家に連絡を取り「A課長が交渉再開を妨害している」と、泣きついた。これを聞いた日本の政治家は「A課長は、政治家がやるべきことに手を出している」との不満を表明した、との話が流れたことがあった。また、北朝鮮側はA課長を「日朝正常化交渉再開」の最大の障害と非公式に非難したりした。

ともかく、A課長は「拉致問題をないがしろにしたら、日本外交は国民の信頼を失う」との判断と、「公にすることで家族が殺されることも覚悟している以上、それに応えなければならない」との考えで、「条件付きの交渉再開」に外交の向きを変えたのであった。しかし、その後の展開ではA課長が願った「日本外交の使命」と「国民の信頼」よりは、早期の正常化交渉再開という政治的な意向が優先されたように見える。ただ、北朝鮮側も完全な無条件再開とはいかず、「行方不明日本人の再調査」を約束せざるを得なかった。

この北東アジア課長が、「拉致問題」を正常化交渉の事実上の条件にした背景には、日本の外交官の気概があった。「日本政府への国民の信頼」がかかっていると判断したのは、実は大変な決断であった。政府が国民の命を守る意思を見せないと、日本政府への国民の信頼は失われる。しかし、この外交官の気概を実現するのは、並大抵のことではない。統一戦線部にとっては、最も困る相手になるからだ。また、日本の政治家の中にも北朝鮮の言い分を認める政治家も少なくなかった。

2012年7月11日水曜日

父性への期待や要求が高まる

父性への期待や要求が高まる中で、父親や教師が父性に欠けているため、私たちのようなカウンセラーが、よけいにそういうことをしなければならなくなってきたとも言えます。

つまり、世の中の人が避けていることを、カウンセラーがやらされているわけです。だから私は、クライエントにもよく怒ります。「このことができない限り、ここには来るな。私はそんな甘っちょろいやつに会うために生きてるんじやない」などと、はっきり言います。

カウンセラーは、父性をもってなければ、むずかしいクライエントには対処できません。これは、男と女に関係なく言えることです。

日本はもともと母性的な社会ですから、母性は特別に訓練しなくても身についています。ところが、キリスト教文化圏の西洋の人たちは、なかなか母性が身につかない。

ユングは母性的な面も重視した人ですが、その点、日本人のカウンセラーたちは、相手をやさしく包みこむような母性を自然に発揮できるので、彼らはそれにびっくりします。

父性を発揮するときも、母性的な受容と同様、真似するだけでは逆効果です。カウンセリングでは母性を基盤にしつつも、どこかの段階でズバリと父性を出さなければならないときがあります。

ところが、期待はしつつも、父性に慣れていないことではクライエントも同じですから、よほどよく考えてやらないと失敗します。

2012年6月20日水曜日

患者のことばかり考えていたら、心理療法家のほうがまいってしまう

心理療法というのは、本気でやったら、とてもしんどいものです。患者のことばかり考えていたら、心理療法家のほうが死んでしまいかねないほどです。

私自身、五十歳ころのことですが、疲労で自分のほうが死んでしまうのではないかと、本気で危機感を抱いた時期がありました。

クライエントには死にたいと思っていたり、「死ぬ」と言ったりしている人が多いから、そういう人たちを相手に本気でやっている心理療法家なら、誰でもこういう経験はあると思います。

クライエントにしてみれば、自分が死にかけているのに、心理療法家にいい加減な気持ちでいられたのでは、たまったものではありません。彼らのそういうことに対する察知能力はすごいものがあります。

そこで、下手をするとクライエントを死なせてしまうことにもなりかねませんから、こちらとしても、ふわふわした気分でいるわけにはいかず、心理療法の現場が生きるか死ぬかの壮絶な闘いの場になっていきます。

外国の心理療法家が1ヵ月くらいのバケーションをとったりするのも、限界ぎりぎりまで巻ききったゼンマイをもとに戻すには、どうしてもそのくらいの期間が必要だからです。アメリカの医者の中でもっとも自殺者が多いのは精神科医だそうです。

これは先の「治療者の限界」とも関連しますが、私の場合、そうした危機状態からどのように抜けだしたかというと、そうしているうちに、自分がやっているわけではなく、治っていくのはクライエント自身の力なのだということがだんだんとわかってきたことが大きかったようです。

自分で必死になって治してあげようと思っているから、よけいに治らず、消耗するわけです。そういうことがわかったときに、自然と危機感も消えていきました。

苦しみの処方畿

「私は精神科医としても、神経症、うつ病、精神分裂病の治療で薬物療法を行いますが、積極的に夢を使っての心理療法(夢分析)と同時に行います。

一般に薬物(抗精神病薬、抗不安薬、抗うつ薬)は夢に影響を与えると聞きますが、実際上、薬物療法を併用しての夢分析への治療上の悪影響というものは考えられますか」

薬物療法についての角野さんの質問ですが、私は精神科医ではないので、はっきりしたことを言う資格はありませんが、この問題は、ユング派の中でもよく取りあげられてきた問題です。

大きく分けて、できるだけ薬を使わない方法でやっている人と、患者が苦しんでいるのだから、ある程度は薬を使いながら心理療法をやっていこうという二派がありますが、私にはどちらがどうという判定はできません。自分がどうしたらいいかということは、自らの体験の中から自分自身でつかみ取っていくしかないでしょう。

薬を飲むと、ある意味では楽にはなりますが、苦しむからこそ治るというところもあって、そこのむずかしさがあります。患者が苦しむときには、治療者も苦しいわけで、医師や看護婦の苦しみを防ぐために、患者に薬を飲んでもらう場合もあります。

たとえば、放っておいたら暴れてどうしようもない患者さんなら、やはり安定剤などで抑えることも必要になるでしょう。

私が訓練を受けていた当時、ユング研究所のリックリン所長は、「自分の体のもつ限り、薬は使わない」と言っていましたが、こちらも苦しくてたまらないから使ったほうがいいという考え方の人と、両方があります。

心理療法の本来的なかたちからは使わないほうがいいというのは、理想論であって、現実の問題とはまた別です。したがって、現実問題をどう読んでいくかが大きな課題となるでしょう。

同じ使うにしても、種類とか量についてもしっかり考えていかなければなりません。私は医師ではありませんから、そういう点は、むしろ角野さんに期待したいところです。

相手に会うのがいやだと眠くなることがあります

そこで、相手からそういうことを言われる前に、こちらから、「じつは昨夜、ほとんど寝ていなくて、どうも体調が悪いんだ」などと言うこともあります。もちろん、こちらから自分の、いわば弱みを言えるようになるまでには、かなり時間がかかります。

それによって相手に納得してもらえるような言い方ができるようになったのは、それこそ五十歳近くになってからです。

三十歳そこそこぐらいの若い人が言っても、なかなか相手は納得してくれないでしょう。だから、いつでもできる限り体調をととのえて、いい調子で会うこと、それをずっと考えていなければならないでしょう。

まだ私がずっと若かったころ、こんなことがありました。そのクライエントとは非常にうまくいっているし、私の体調もいいのに、その人と話していると、すごく眠くなってきたのです。

おかしいなと思っていろいろ考えますが、睡眠不足でもないし、食事もちゃんととってきたし、眠くなる理由がわかりません。

相手に会うのがいやだと眠くなることがありますが、自分ではうまくいっていると思っていますから、それでもない。いくらしやんとしようと思っても、話を聴いていると、ブーツと眠くなってくる。

そこで私は、これはきっと、彼は私に聴かれたくないことを言わずにいるに違いないと考えました。このへんまではなんとか理論でいきますが、そこから先は直感です。ふいに勘がはたらいて、「あなた、今日でやめるつもりじやないですか」と言ったところ、相手はびっくりして、「えっ、どうしてわかりましたか」。

若いときというのは、うまくいってるときには、相手が苦しいということがなかなかわかりません。治療者がうまくいっていると思っているときというのは、相手はいろいろと反省したり、深く考えたり、苦しんだり、自分を責めたりしているということです。

そこで、こちらがうまいこといったと思って喜んでいると、相手の苦しみとはだんだん乖離していきます。この状態がある程度まで進むと、相手は面接に来る気をなくしてしまいます。ちょうど、そういう状態だったのです。

クライエントが自分を変えていくということは、苦しんでいることにほかなりません。その苦しみをこちらがしっかりとわからなければならないのですが、初心者のころは、それがよくわからない。こっちはうまくいってると思っているのに、相手は苦しんでいる。そういう乖離が起こって、相手はやめようと思っていたわけです。

自分の技量は、まずコンディションが良好でなければ発揮できない

自分が失敗したかどうかは、相手がもう来なくなったり、次の面接のときに遅れてくるとか、攻撃的になるとかでわかります。

たとえば、クライエントに思いきって、「私はあなたのセラピストとしては、スケールが小さすぎるかもしれない」というようなことを言ったとしたら、次の回がすごく大事になります。

次の回に遅れてきたり、来なかったりしたら、自分の言ったことは失敗だったということになります。そういうこともありうるということをすべて考えていないとだめです。

それから、明日、相手と対決するというときは、食事と睡眠をよくとるなど、コンディションを完全にととのえておく必要があります。

これは、スポーツ選手や芸術家と同じです。もちろん、プロである限り、どんなコンディションでも、ある線は崩さないというものでなければなりません。

先日、世界的フルート奏者のシャンリピエール・ランパルと対談したとき、自分でも満足のいく音が出せるのはめったにないとのことでした。しかし、‐ランパル自身は満足していなくても、お金を払って聴きにきた観客は十分に満足して帰ります。それがプロというものです。

われわれでもそうだと思います。どんなコンディションでも、ある程度のことはできる。しかし、「今日はやったぞ」と思えることは、非常に少ないものです。

自分の技量は、まずコンディションが良好でなければ発揮できないし、そういうことを考えていないセラピストは、ニセものだと思います。また、すごくむずかしい人の場合、七人も八人も会ったあとで会うというようなことは絶対しません。

そんなふうに注意をしていても、ときとして、どうしても書かねばならない原稿があって、ほとんど寝ていないとか、不慮のことが起こることがあります。

ところが、こちらはいつもと変わらないつもりでいても、クライエントは必ずこちらの不調を敏感に察知します。すると、当然、相手のこちらに対する態度も変わってきます。

プロというもの

角野さんは、次の質問も寄せています。「心理療法の中で治療者が自分の限界を感じたとき、または悟ったとき、どうすればいいか。

素直にこのことを話し、中断を考えるのか、限界の中でなんとか治療者の力量を納得してもらいながら続けるのか。

自分の治療者としての能力、素質に疑問を感じたとき、この仕事を続けていくことに自信をなくしたとき、どうすればいいか。いったんやめてみるか、仕事を意図的に減らすのか、そのまま行けるところまでやってみるか」

こういう気持ちは、一生懸命やっているカウンセラーなら誰もがもっているものです。これをなくしてしまったら終わりです。ただ、そういった自分のいまの悩みは、たいていの場合、クライエントに伝えなくても面接を進めていくことはできます。

ただし、相手がすごくむずかしい場合は、一か八か伝えることも考えられますし、そのことによってお互いに成長することもあります。

もちろん、いかに話すか、その言い方も問題で、自分の荷物を相手にもたせるような言い方をしたのでは、絶対にだめです。言う場合は、自分も背負いながら歩いている一人として言えばいい。

これが西洋人の父性!

ほんとうの母性というのは、かりに子どもが殺人罪を犯そうとも、徹底的に守ろうとします。それに対し、「いくらおれの子であろうと、悪いことをしたら必ず放りだすからな」というのが父性です。

高校の教師をしているとき、私は他の教師たちとよくフランス語の本を読んでいましたが、父性に関しては、フランスの作家メリメの『了アオーファルコーネ』という短編小説が強く印象に残っています。

十九世紀中ごろのコルシカ島での物語ですが、羊飼いのファルコーネが山に行って留守の間に、家に残った息子が、憲兵に追われて家に飛びこんできたおたずね者を、五フラン銅貨をもらってかくまいます。

ところがやがて憲兵が来て、「犯人の居場所を教えてくれたらこれをやろう」と銀時計を差しだされると、それを受けとって男をかくまっていた場所を教えてしまいます。

憲兵に引き立てられていく男は、帰宅したファルコーネに向かって、「ここは裏切り者の家だ」と毒づいて去っていきます。事実を知ったファルコーネは、息子を村はずれの窪地に連れていき、「おまえはおれの血筋ではじめての裏切り者だ」と言って銃を突きつけます。

子どもはさかんにお祈りと命乞いをしますが、ファルコーネはかまわず撃ち殺してしまいます。その子どもは、三人の女の子のあと、かなり年齢がいってからやっと生まれた一人息子で、そのときはまだ十歳でした。そして、最後に、大声で叫びとがめる妻に向かってこう言います。

「きちんと決まりをつけた。これから埋めてやる。あいつも信者として死んだんだ。ミサをあげてもらうことにしよう」

この小説を読んだときは、西洋人の父性のすごさというものをつくづく思い知らされましたが、これが西洋の父親の役割なのです。もちろん、これはいわば究極の父性で、だからこそヨーロッパでもショッキングな小説だりえたわけです。

現代のわれわれがファルコーネを称賛する必要はないし、暴力的な決着のつけ方という意味では、あまりにもプリミティブで、むしろ粗野で洗練されないやり方と言えますが、日本人はこうした父性の役割について、あまりにも知らなさすぎるように思います。

父性は、輝かしいものとして、厳然と出てこないと効果がありません。

ただ、そうした父性は、輝かしいものとして、厳然と出てこないと効果がありません。カウンセラーがそれを出すには、やはり経験を積む中での訓練が大事です。

私が大学で教鞭をとるようになったころは学生運動がさかんでしたが、こういうときにも教授側には父性的な対応が求められます。

学生たちにも、教授の父性に接したがっているところがあり、それでいろいろなことをやるわけですが、そのときに、「いや、君たちの言うこともよくわかる」などとやるから、ますます混乱してくるのです。

当時、私は学生たちに対し、「君たちのしていることはまったく理解できない」と言ったり、彼らが旗を振って怒鳴るので、こちらからも「やかましいツ」と怒鳴り返したりしましたが、どうもこのほうが評判がいい。私は一度も学生に暴力をふるわれたことはありませんでした。

昔はことさら父性をひけらかす必要のない社会でしたが、日本も文化的に変わってきて、父性を必要とする時期になってきました。

子どもたちもそれを期待する。それがあまり急に来ましたし、それまでそうした訓練を受けてきませんでしたから、先生にも気の毒な面があります。いまの校内暴力や学級崩壊などを見ていると、そういうことを強く感じます。

正しい訓練を受けてこなかったから無理もないのですが、父性の出し方を勘違いして、暴力的に振る舞う人がいますが、それは輝く父性ではなく、粗野というものです。

かつての日本の軍隊では、訓練と称して殴ったり蹴ったりしたようですが、これは父性というよりは、母性の恐ろしい面を男の腕力によって表現していると言っていいほどです。

教師の生徒に対する体罰がときどき問題になりますが、体罰と同じ厳しさ、強さを、身体を使わずに、言葉とか態度で表現できるようになることがかんじんです。それが父性を鍛えるということです。

子どもが暴れたりするのにも父親の父性を鍛えようとしている面があります。

たとえば、家庭内暴力で子どもが暴れたりするのにも、父親の父性を鍛えようとしている面があります。そして、父親がそれにきちんとした父性でもって応えられないと、どんどんエスカレートしていきます。

もちろん、母親にも父性的要素はありますが、やはり子どもは父親にそれを期待します。だから、そういうときは父性が前面に出てきたほうがいいのですが、親のほうでその出し方がわからないために、家庭がおかしくなっているというケースが少なくありません。

ある中学生のクライエントが、「あの先生は嫌いだ」と言うから、その理由を尋ねたところ、「ぽくが悪いことをしているのに、いつも知らん顔して、ちっとも怒ってくれない」と言う。

彼はそういうことを友だちにも言っていたのですが、やがてそのことが相手の先生の耳にも入ったようで、次に彼が悪いことをしたとき、その先生は思いっきり怒ったらしい。

そのことをクライエントは私に話しつつ、「あの先生にどやされて、まいっちゃったよ」などと言いながらも、なんとなくせいせいした様子でした。

その先生が思いっきり怒ったのは、父性というものが輝いた一瞬だと思いますが、そうすると子どもは喜ぶのです。それを期待していたわけです。

そこを、見て見ぬふりをされたり、ニセものの受容をされたりするから、ますます腹が立ってくるのです。見方を変えれば、この先生は、その生徒によって父性を鍛えられたとも言えるわけです。

父性が鍛えられる場面

民族的にもともと母性原理が強い日本人には、父性原理をいつ、どのようにして出すかという判断がとてもむずかしく、つい受容の真似ごとのほうに傾いて、うっかり「うん、うん」などと言ってしまいがちですが、クライエントはとりわけ感覚的に鋭敏な人たちばかりですから、そのようなごまかしは通用しません。簡単に見破ってしまいます。すると、さらに攻撃的になって、「よくないこと」をとことんやるようになります。

日本では治療者の父性を育てるのは困難なことですけれども、しかし、これは絶対に必要なものですから、鍛えなければならない。その点を、角野さんはご自分でもすごく考えておられるわけです。

クライエントには、意識はしてないでしょうが、むちゃなことを言ったり、暴れたりしながら、どこかでカウンセラーの容量を推し測っているところがあります。

たとえば、私が先ほどのように父性原理にもとづいた対応をすると、クライエントは、この人の容量はここまでだなとか、こういう人もいるんだなとか、人生にはこういうこともあるのだなとか、いろいろなことを考え、そこからまた新しい生き方がはじまります。

それを、カウンセラーのほうがうわついた対応しかできないでいると、クライエントはますますむちゃくちゃになってしまいます。

角野さんは「子育ての中で」とおっしゃっておられますが、その点では、家族の関係も同じだと思います。家族で生きていく上では、父性が存在しなかったら、ほんとうの生き方はできません。本気で生きようと思ったら、どうしても父性が必要になります。そこで、父親に父性が不足していると思ったら、子どものほうも、父親の父性を鍛えるためにいろいろなことをします。

男女に関係なく、父性と母性の両方の要素をもっている

人間というのは、男女に関係なく、父性と母性の両方の要素をもっていて、その矛盾や対立の中で、全体としての人生をそれぞれに生きているわけです。

そうした対極的、理想的な要壽があるからこそ、生きることの意味も深まるのであって、そこが人間の心の不可思議なところであり、おもしろいところです。

したがって、カウンセラーとはいえ、母性原理で受容しているだけでいいというものではありません。ときには、父性原理を前面に出さざるをえない場合もあります。

日本人のカウンセラーには、そこの判断がうまくできない人が多いようですが、それは、母性的要素が強く、父性が弱いという日本の文化の特徴に由来しているように思われます。

父性と母性の対立と相補性とは、人間にとって大きい要素であり、私たちはこの両者を必要としつつ、生き方や考え方の上では、通常、どちらか一方に重心をかけています。

日本人は母性のほうに重心をかけていますが、西洋人では父性原理が強く、それは、キリスト教文化と無縁ではありません。ユダヤーキリスト教の神は、父性的性格の強い神と言われています。

西洋・東洋と父性・母性との関係についてはすでにいろいろなところで述べていますから、ここでは詳しくはくり返しませんが、西洋では強調された父性原理によって近代科学や個人主義が生まれてきました。

そこでは、自我の確立が重要な目標とされ、無意識の重要性を強調したフロイトも、その無意識を自我のコントロール下に置くことをめざしました。だから、フロイトの心理学は、父性原理のもとに築かれた心理学ということができます。

ところが、父性原理の強い西洋にあって、ユングは珍しく母性原理にも注目し、自我を超えて人間を全体として見ようとしました。

それは、彼が自ら体験した幻覚などが、自我によっては容易にコントロールできず、心を全体としてあつかわざるをえなかったのでしょう。

フロイトが父親との関係にこだわったのに対し、ユングは母親の存在を強く意識していたようで、そういう個人的な境遇とも関係があるかもしれません。

2012年5月16日水曜日

富士通当時の社長の「週刊東洋経済」の発言に驚いた

エポックメイキングだったのは、富士通の秋草直之社長(当時)の発言です。業績が悪いのは「従業員が働かないからだ」とインタビューで答えています(「週刊東洋経済一二〇〇一年一〇月二号」。この「週刊東洋経済」の記事は、ITの時代にもかかわらず、富士通が一七年前の連結決算最高純利益を更新できず、しかも過去一〇年間で一度しか社長が替わっていないことを指摘していました。

秋草社長は自らの経営責任について、次のように答えています。

記者:就任以来ずっと下方修正が続いている。社長としての責任をどう考えるのか。

秋草:くだらない質問だ。従業員が働かないからいけない。毎年、事業計画を立て、その通りやりますといって、やらないからおかしなことになる。計画を達成できなければビジネスユニットを替えれば良い。それが成果主義というものだ。

記者:従業員がやらないから、といえばそうだが、まとめた責任は社長にあるのではないか。

秋草:株主に対してはお金を預かり運営しているという責任はあるが、従業員に対して責任言々といって、(社長は従業員に)命令する。経営とはそういうものだ。

何とも大会社の社長にあるまじき言葉だと驚いた。

今、日本が「英国病」になっている

先進国がいわれていた言葉に、「英国病」というのがあって、労働者はあまり働かないけれど、日本は一生懸命やるというような話です。日本で電電公社(現NTT)に電話を頼むとすぐ来てくれるが、イギリスでBT(ブリティッシュ・テレコム)に頼んでも1ヵ月もかかるといわれていました。

私は九三、九四年にイギリスに留学しましたが、申し込んだBTは次の日には来なかったけれど、三日で来た。帰国してからNTTに連絡したら1週間かかったこので、いつの間にか話が逆になっているなと思った記憶があります。

八〇年代前半は浮かれていた面もあったけれど、品質は世界的にも自負があって、それが企業倫理をどこかで支えていました。しかし、今は全然違う。海外に日本企業がどんどん進出しているためもあるけれども、どこで作っているのかさえよくわかこないものが多い。

中国から輸入された野菜が日本で許可されていない農薬を使っていて回収されたことがありましたが、それと同じようなことが、あらゆる製品で起こる可能性があります。品質管理をどのように行うのか、きちんとしてもらわないと、大きな事故につながりかねません。