2014年5月22日木曜日

カテゴリーの定義

概念が修正されるということはサーチライトの光が増えたり、角度が変るということに他ならない。すなわちサーチライトの光が変ることによって、今まで見えなかった暗闇が照らし出され、新しい「事実」が認識されるのである。言いかえれば「残余カテゴリー」という暗闇が、新しい「概念」によって照らされて「事実」に変化するのである。そして読者が既に気づいておられるように、この概念の修正、さらには新しい概念の創出こそ、人間の知的創造にとって、きわめて重要な働きなのである。

さて実際の研究の過程において特定の「概念」は、研究者が「何を観察すべきか、その一般的定義を与えているということができる。しかし一口に定義を与えるといっても、概念の種類によってその定義の与え方には、いろいろな相違があるであろう。たとえば社会の研究で使用される重要な概念の一つに「性別」がある。言うまでもなく男女の別は人間の社会における役割について、あるいは意見や行為の型について、様々な相違を生み出している。しかし「性」を区別するのにわれわれはなにをどう観察するのか。その観察についてどういう定義があるのか。

オリンピック競技などにおいては、女性と男性との区別について、細かい医学的定義があるのであろう。しかし今のところ社会の研究においては、「性別」について何を観察するかの定義は、常識にまかせられている。近頃は日本でもアメリカでも、後姿だけ見たのでは男性か女性かの区別のつかない若者が増えてきた。しかし世論調査の調査員は質問を開始するに当って、「あなたは男ですか、女ですか」などという間の抜けた質問は発しないであろう。もし調査員が、このような質問をしなければならないとしたら、それはよほど特殊なケースであろう。

けれども社会の研究における基本的な概念でも「学歴」となると、話は「性別」より面倒になってくる。「学歴」とは一般には「教育水準」のことであろう。これに加えて「出身校」「学位」、さらには在学中の「成績」についても、考慮しなければならないかもしれない。仮に「学歴」を「教育水準」としてこれを具体的に観察するには、「小学校入学から数えて何年間」という基準を、用いる場合もあるだろう。また「高校卒」「大学卒」と分類する場合もあるだろう。また「高、中、低」の三段階に分ける時もある。

このように実際の分析に役立つような観察を行うには、あらかじめ観察についてのカテゴリーを、具体的に「定義」しておかないと混乱が生じる。さらに「社会的地位」とか「政治的地位」というような、比較的ありふれた概念でも、いざ定義を下してなにを観察するかということになると、かなり複雑な問題になってくる。たとえばバークレーのカリフォルニア大学で、博士論文のテーマとして私は日本の政治エリートの問題を選んだ。万延元年から、昭和四十四年までの約百年間における、日本の近代化の過程に現れた政治エリートの特徴と変化を、調べようとしたのである。私はこれらの政治エリートの社会的背景や政治的経歴を分析することによって、日本の近代化の特徴を、明らかにしようとしたのであった。

2014年5月2日金曜日

一人ののぞき見から・・・

人間の心のなかには、新奇未知なものを、知ろうとする働きがあり、これによっていままで、数かぎりない発明や発見がもたらされている。

しかしながら、人間のもつ何かを知りたいという心の働きが、つねに、プラスの側面にだけあらわれるとは限らない。単なるのぞき見的なものであることも多い。

しかも人間は誰しも多かれ少なかれ、やじ馬的要素をもっているもので、そうした好奇心がマイナスの側面に働いてしまうこともまぬかれえないことである。

大道で人だかりがしていると「なんだろう」とのぞいてみたくなることがよくあるが、実際にのぞきこんでみると「なんだくだらない」ということは誰しも経験することであろう。

知ってしまうと「なんだあんなことか」とがっかりすることが多いが、知るまでは、何事に対しても好奇心をいだくのが人間の心理である。しかし、時としてたった一人の気まぐれなのぞき見的な気持ちが、大きな群集にまでふくれあかってしまうことがある。

群集も一つの集団ではあるが、組織的にできあがったものではなく、ただ、ゆきずりの互いに一面識もない人たちが、単なる偶然によって一つのかたまりとなったものにしかすぎない。

しかしながら、群集の示す行動様式は、他の組織的な集団と比較していろいろな特徴がある。俗にいう「群集心理にかられる」という表現があるが、ひとたび、個人が群集の中にまき込まれてしまうと、いままでとはまったく異なった行動様式を示すようになる。

この行動様式は、ふつう、いつもは抑圧されたり、禁止されたりしているものが、ベールをはがしたように、表面にあらわれて、本能的感情そのままに行動するようなものであることが多い。たとえば、交番に向かって石を投げたり、競輪場でベンチに火をつけたりというような暴発的なものであったりする。

これは、群集という特異な集団は、なんら組織だったものではなく、ゆきずりの人たちが、ただ偶然に集まったにすぎぬ場合が多いので、自分の行動に責任をもたないばかりか、自分一人だけでないという心強さがてつだって、ふだんは抑圧されているものが理性を越えて、本能的行動にかりたててしまうのである。