2015年12月2日水曜日

「同じで異なる」ことが実感される

新世紀を迎えた今日の世界で、文化はさまざまな形で問題となり、複雑に存在しています。

一方でグローバリゼーションのかけ声とともに、どこでも同じの画一的な文化が地球を覆う動きが急です。たとえば、アジアの主な都市では景観や生活様式がきわめて類似の形になりつつあり、人々の服装や食べる物も同じ傾向を強めています。

他方、日常生活で話される言葉や人々の行動、そして事物のとらえ方や価値の置き方には、それぞれの国や社会や地域の違いが強く反映されていて、外観は同じように見えて中身は大きく異にすることが多いのです。

日本から一歩外へ出れば、近隣国の首都であるソウルでも北京でも「同じで異なる」ことがすぐさま実感されるでしょう。ま几ロンドンからベルリンへ行くときにも、同じヨーロでハとはいいながら、本当に「同じで異なる」ことの多いのに驚かされます。かつてドイツの文化哲学者ベンヤミンは、日本語の「パン」を意味するブレッド(英語)、パン(仏語)、ブロート(独語)の間に越え難い意味的な差違があることを指摘しました。同じことは日・韓・中の言語と文化の間にも、たとえば「ごはん」や「麺」といった言葉の指すものの違いに示されるでしょう。

ソウルや北京を訪れても、人々の日常的な言動に示されるものの違いに驚くことがよくあります。北京での常宿の大ホテルの三階には「麺」と大きく看板を掲げたレストランがありますが、そこで中国各地の多様な麺に接してうれしい驚きを味わうとともに日本のソバやうどんと同じ料理に出会わないことにも驚きます。

「麺」差には東アジアの国々の間で大きなものがあるようです。食べるといっても、着るといっても、文化間の違いを感じます。色彩の用い方も、食べることの好みも、一日でもながくトれば大きく異なることが解ってきます。同じ「東アジア」とよばれても、その間には異文化が歴然として存在することがはっきりとしてきます。

2015年11月3日火曜日

中国の新聞記者

記者が記事を書いても、どの記事をどのように採用するか、見出しをどのようにするか、新聞社にもそれなりの規則があると聞く。テレビにはテレビの規則がある。新聞記者は出世を望まないか? 否。新入社員は事実を報道する為に入社するのであろうが、時間と共に事実中心よりも出世や給料にも重点が移るのではないか。このようなことを率直に突っ込むので煙たがれた、ということもあるだろう。事実という点で、新聞とは異なるが一つ例を挙げる。第二次天安門事件(一九八九年六月)の際に、天安門広場で人民解放軍の戦車が広場のテント村を襲って人民をひき殺した、と報道されたことがある。結果的にBBCも一年と経たないうちにその事実は映像に写っていなかった。NHKも数年遅れてその事実を認めたという記事が小さく新聞記事に載った。

確かに映像だけを見ると戦車がテント村に突っ込んだ映像があり、その映像を見た人は当然、中にいる人を踏み潰したかに見える。あるいはそのように思い込む。その映像にはテントの周りにも人かおり、他のテントの中に人がいることも映っている。また、その他の地域で戦車と人民が戦ったという報道を同時に聞いている。人間の耳と脳は他の事実とあわせて見たものを判断している可能性が高い。映像とは恐ろしいものだ。私はここで映像に写っていなかったという事実をもって、その事実がなかったとは言っていない。ただその事実があれば、おびただしい血がその場に流れていたはずだ。その報道を私は耳にしていないだけだ。

新聞は本当に事実を伝える公器であるのか。事実を伝えるというのであれば、本当に中立か? 中立ならば何故いろいろな新聞社があり、その新聞社の考え方に違いがあるのだろうか。「事実」はだれがどのように見ても一つであり、同じであるはずだ。しかし、新聞記者はそれぞれ異なる会社に属している。事実の捉え方が会社によって異なっている。従って、同じ事実であっても、表現が異なる為、または同じ事実を新聞記者の経験や能力から違った角度から見るので読者は違った事実があるように見える。本当に事実が一つであれば、全ての新聞記者が書く事実は同じであるはずだ。しかし、それならば新聞社は何社もいらない。私の言いたいことは、新聞記者に気軽に事実の報道をしていると言っては欲しくないのだ。

中国の新聞記者は、国益の為に記者活動を行う。国益になる事実のみを報道する。政府が事実あるいは情報と判断した事実のみを報道する。日本の新聞記者と違うと言われている。従って、自分たちが国益の為に記事を書くので、そうではない社会の新聞の精神は理解できない。自分たちの判断から他国の新聞記者も同じと考える。即ち、中国の新聞記者は他国に出ればスパイ活動を実質行っている可能性が高い。その為に、中国は外国から来る新聞記者をスパイと思っている。従って、外国の記者の中国国内の活動を制限している。現在は、私か北京に常駐していた時代(一九八九年上一〇〇五年)と異なり、だいぶ開放されたが、当時は私たち民間の企業人のほうが自由に地方の企業に行けた。新聞記者はいちいち何処に行くか、どんな記事を書くのか申請して許可を取る必要があった。

いまではその許可もだいぶ自由になったが、一方、ビザの種類が新聞記者と私たち民間の企業人とは異なることになった。新聞記者も人間である以上、様々な考え方を持っている。日本ではそれが許されている。逆に言えば、様々な考え方を持っている以上、彼が報道する記事には彼の考え方が反映されると言うのが普通である。本当の意味での中立とは言えない、ということだ。私は、各種報道が中立であり、報道された事実が全てとは考えていない。(嘘があると言っているのではないが、最近は握造記事ややらせも摘発されているので、嘘の報道もあることになる。)二〇〇八年はギョウザ問題とオリンピックや四川省の大地震等、報道にはこと欠かなかったが、ギョウザ問題も中国のずさんなところを一方的に報道した。勿論、中国側にも落ち度はあるし、対応の仕方にも問題があるのは先刻承知の上だが、それにしても報道は偏向気味である。

2015年10月2日金曜日

農業とハイテク産業の調和

OECDでの講演がきっかけで、南フランスのラングドックールション地方との交流が始まった。ここは国家プロジェクトとしてリゾート開発がすすみ、ヨーロでは有数のリゾート地になっている。その中心都市・モンペリエ市は同時にテクノポール建設をすすめている。テクノポールとは日本でいうテクノポリスである。当地出身の社会党のデルフル議員より、「自分の生まれ故郷のモンペリエ市と協力関係を結びたい」という提案があった。その後、同地方のキャプドヴィル議長やモンペリエ商工会議所の視察団が幾たびか訪れた。そのたびに、「あなたに来てもらって、直接話をしてほしい」との要請を受けていた。

そこで六〇年一〇月、モンペリエ市発足一〇〇〇周年記念行事のゲストとして同地方を訪問した。農業とハイテク産業の調和、独自の文化都市づくりについて討論が行なわれ、地理的、経済的にも多くの共通点を持つことが指摘された。こうしたことから、「大分県とラングドックールショッ地方との間の友好協力宣一言」に調印。これからの地域振興のノウハウの交換を行なうことになった。今日では、大分の農村婦人が同地方の農村婦人と交歓会ももっている。

この友好協力宣言ゆこの後、ブラジルのスピリトサント州とも結んでいる。自治体はよく姉妹都市を結ぶことがあるが。大分県は世界のいろんな地域との交流を考えており、一力所のみの交流をつなけたいとは思っていない。

六三年一月、イギリスの外務大臣サー・ジェフリー・ハウ(現副首相)が湯布院町の農家にあがり込んだ。一村一品運動の活動家たちとじっくり懇談、仏壇の前の座敷にぎこちなく正座した姿は絵になった。ハウ外相は日英協議で来日したわけだが、それまで五回の来日は東京だけしか滞在していない。「東京は本当の日本ではない、日本の地方を見たい」ということで大分が選ばれ、ロンドンから成田、羽田を経て直接大分に来たのだ。

2015年9月2日水曜日

いぴつな民間運動の表れ

北京の中堅大学に通う女子大生・Dによると、彼女が在籍する学校ではデモ参加禁止の通達が出され、教師が6・4天安門事件を引き合いに出して、「行かぬことをすすめます」などと学生たちに言ったらしい。「中国では1万人の村で5000人が殺されてもデモなんてできなかった。おもしろそうだし、見に行きたかったけど、なんだかこわくて」との彼女の言葉はある種の若者の心理を代弁していたのではなかろうか。かくなる心理が存在する中で晴れてデモに参加することができたなら、記念撮影したくなるのもわからぬではない。そして、隊列に加わった参加者全員が熱心なわけでもなかった。冷やかしも多数含まれ、熱心な参加者の何人かが拡声器で「スローガンを叫ばないなら中国人じゃない。遊んでるんじゃないんだ!」と怒鳴るのが頻繁に聞かれた。後日知ったことだが、この隊列にはぼくの友人が2人加わっていた。2人ともデモがどんなものかを見たいということだけが、参加理由だった。

中関村でパソコンを運搬する出稼ぎ労働者が「ほら、邪魔だ、邪魔だ」と叫びながら隊列を遮ったことが何度かあったが、そのたびに周囲では笑いが漏れた。反米デモの時であれば、笑った者も含めて袋叩きに遭ったかもしれない。ただし、何かがあれば、冷やかし層もみなが拍手し、ぼくの友人たちがそうだったように、熱心な参加者に怒られた時はスローガンを叫んだ。それは反日というよりはノリとでも言うべきものだろう。もちろん、本当に日本に対して怒っていた人もいたに違いない。しかし、その数はただでさえごく少数に過ぎなかったデモ参加者の全員ではなかった。日本の戦争責任について語るとしたら、怒っている人たちはむしろデモの蚊帳の外にいた。ぼくはトイレや食事の時を除いてずっと先頭集団に付いていたが、日本大使館前と大使公邸付近を除いて、日本人の姿はあまり見かけなかった。明らかに日本人だとわかったのは、沿道から遠巻きに眺めていた商社マンふうの白髪の紳士たちで、ぼくも含めて多数の撮影者が先頭付近を取り巻いたが、中国語か英語のネイティブスピーカーばかりだった。

反米デモの時、アメリカ人数人が先頭集団の近くにいて、デモ参加者が彼らを取り囲み、激しい議論が応酬される光景を目にしたが、反日デモではどうだったか。大使館街を離れてしばらく経った頃、先頭集団と向き合って撮影していたぼくの携帯電話が鳴った。日本からだった。反米デモの光景がよみがえり、さすがに日本語を話すのはどうかと思ったぼくは、10メートルほど後ずさりした。拡声器でスローガンが叫ばれるので周囲はうるさく、この程度の距離があれば話し声は聞こえないはずだった。電話は日本のテレビ局のバラエティ番組製作チームからだった。ぼくは、タレントが横浜中華街を訪ねる番組の監修をやっており、それに関連する電話だった。ロケ先にいた彼らは反日デモが起きていることをその時点で知らず、「パンダの尿の色は緑色ですか?」という場違いな質問をぼくにぶつけてきた。

パンダの尿のことなど知らないし、状況が状況だったから、しどろもどろの対応をせざるを得なかった。ふと、あたりを見ると、先ほどまでの喧騒はなかった。これからデモ隊の進む方向について相談している最中で、デモは小休止の状態だった。ぼくの声は丸聞こえであり、隊列の何人かがぼくを指さして「あれは日本人だ」と言うのが聞こえた。反日デモの空気が反米デモと明らかに異質だと悟ったのはその時だ。ぼくを指さした連中は、デモが再開されるとぼくのことなど忘れたように行進に夢中になった。彼らにとってその時のぼくは、デモ中の1つのアクセサリーでしかなかったのだろう。暴力はおろか、論戦を交わそうとはゆめにも思わなかったに違いない。それどころか、電話の鴫る前、ぼくは中国人参加者と間違われて「スローガンを吽べ」などと度々注意を受けたが、日本人と知られたことで怒らなくなった人がいたほどだ。あくまでぼくだけのケースかもしれないが、少なくとも反米デモの緊迫感の中では起こり得ないことだった。

評論家の劉樽は反日デモを民間運動だととらえたが、彼らの主張に日本への理解不足が目立ったことや、6・4天安門事件に自ら遭遇した経験と比べて、反日デモは党の黙認があったから実現したにすぎなかったことを見て、「民間の運動としては中途半端だった」と感想を述べた。サッカー「反日」は、日本に関しての目新しい意見よりも、昔から庶民感情として根深くあるアンチ日本を、サッカーの国際試合という政治とは無関係な場で表明できたところに意味があった。それがただひたすら日本に反感を持って起きたものではなかったことは、熱心な参加者の中に意外にも日本が嫌いでない者が含まれていたことからもわかる。サッカー騒動が起きた時、疑問に思ったのは、なぜほんの少し前に行われた大相撲中国公演の際に騒ぎが起きなかったかである。日本への嫌がらせという意味では、相撲ほど日本を象徴するスポーツはないわけだし、はるかに効果的だったのではないか。しかし、「反日」の参加者にこの疑問をぶつけても明解な回答は得られなかった。

2015年8月3日月曜日

他官庁との競合・抗争

日ソ関係について二言しておけば、北方領土問題の解決を最重要課題とし、他の問題をすべてこれと絡めるいわゆる。政経不可分論の立場は、外務省が長年にわたって主張してきた政策である。ソ連の対外政策が硬直し、日本にとってソ連は脅威であるという主張が受け入れられやすい時代には、この主張は大きな影響力をもち、事実上日本の対ソ政策の根幹を形作ってきた。

しかし、ソ連政治に大きな変化が生まれ、ソ連(あるいはロシア)の脅威とは何かという肝心な点すらぼやけてきた今日、果たしてこれまでの政策を続けていくことは正しいのか、という問いかけをせざるを得なくなっている。しかし、外務省が自らその主張を改めることは期待薄だ。そこで、自民党内部から現状打開を主張する動きが生まれてきた。

戦前でも、外務省の政策、外交官の行動に対して、他の官庁から横やりが入ったことは稀ではない。特に、軍国主義が次第に日本の政治全体を覆うようになるにつれ、軍部が日本の対外政策に対して圧倒的な影響力をもち、外務省の力をそぐ結果になったことはよく知られている。

しかし、戦後における外務省と他官庁との関係は、格段に複雑になっている。しかも、日本外交の主な内容が経済問題になったことは、国内経済官庁との競合関係をいやが上にも増幅させてきた。外務省はこれまで、「外交のて几化」(外交問題は、外務省が国内を代表して対外的に折衝する唯一の政府機関であるという主張)を錦の御旗にして、他官庁が、その国内権限事項に関する外交問題を自前で処理することに対して徹底して抵抗してきた。

外務省の主張は、決して根拠のないものではない。外務省に限らず、どこの中央官庁にしても、その仕事の内容、権限、責任などの範囲に関しては、各々の「設置法」という法律があって、その中で定められている。外務省の場合、「外務省設置法」があって、その最初のところで、外交に関する事務は外務省が扱うとされているのである。

2015年7月2日木曜日

組合指導部の統制

組合役員選挙への立候補を実力でかちとって以来、労働者たちは自信をもつようになっていた。彼らは職場をまわって討論を重ね、これらの不満と要求をひきだしたのである。とりわけ、有休についての不満が強かった。「自分の思い通りに使えない有休なんか、あったってなくたっておなじだぜ」「オレがこの前、風邪ひいて調子が悪かったと矢軽い仕事にまわしてくれって頼んだのに、あの野郎(職制)、ダメだっていいやかってよ」「それを組合にぶっつけようや」といったように討論がまきおこった。その結果がこの「要求書」である。職場で読みあげられると、職制が嘉山のところにやってきた。

「有休取得率を八〇パーセントに制限していることはない。他の要求は受けいれないけど、キミや東クンは有休を自由にとっているが、他のひとだって、そうしていいんだよ」当り前のこととはいえ、職制が有休の権利が労働者にあることを認めたのは未曾有のことである。組合指導部の統制をはずれて、職場で労働者たちが口をひらきはじめたのは、快挙というべきことだった。公然とした抵抗によって、職場の雰囲気が変りはじめたのである。

演壇中央に日の丸の国旗、左隣りの日産の社旗、そして右隣りに自動車労連旗。その下で、川又会長が挨拶し、石原社長が挨拶し、塩路労連会長が演説する。一九八一年一二月二六日、東京・歌舞伎座でおこなわれた創立四八周年式典の光景である。日産労使代表が前後して社貝のまえで演説するのは、創立記念日ばかりでなく、四月の入社式や八月の浅草・国際劇場での日産労組創立記念総会でも同様である。八月三〇日の組合結成日は休日となり、第二組合として出発した日産労組の誕生が、労使ともどもの祝辞によって飾られる。

ところが、八〇年末の日産創立記念式典で、塩路は、川又、石原をまえにしてこう述べてい「信頼というものをつくるには、汗も出るし、血も出るし、大変に重いものだと私は思います。そういう。信頼”というものを、日産の歴史を貫いていく大事な宝にしたいと考えて、私たちは追浜工場に。相互信頼の碑”を建てました。その信頼の碑が二〇年以上も経ったせいか、何故か歳月の重みに耐えかねているようにみえてなりません」歳月の重みに耐えかねている、と塩路がいう「相互信頼」の碑は、ブルーバードを送りだした追浜工場の正門わきにある。碑文は鮒宸愈初代自動車労連会長が起草し、揮毫はそのすぐそばに銅像となってたつ川又克二社長による。六二年三月にたてられたものである。

自己の権利を主張することも必要であり、そのために闘うことも華々しいが、闘争の嵐が吹きすさぶ憎しみの泥沼には、幸福の『青い鳥』は飛んで来ない。人智が進んで、いかに企業が近代化しようとも、その安定した基礎は所詮、昔ながらの人間関係にある。労使の相互信頼、それこそが日産の源泉であり誇りである」それが青い鳥なのであろうか、芝生におかれた碑を、あたかも抱きかかえるようにして、二羽の鳥がはばたく像がある。あるいは、この二羽が、労と使の代表を象徴しているのかもしれない。しかし、仔細にみると、それはたがいにそっぽをむいているのである。

2015年6月2日火曜日

年金の国庫補助を廃止するプラン

スウェーデンの医療費はGDP対比で七・五パーセント(一九九三年)で、OECD(経済協力開発機構)のなかでも低いほうである(日本は七・〇パーセント)。スウェーデン政府は「これ以上ふやさない」ことをモットーにしている。ただ、この医療費は、かつて県が負担していた診療所の費用がコンミューンに振り替えられるようになっており、日本の医療費のように介護費用は含まれていないことを考えると、そんなに低いとはいえないように思う。

リフォームと呼ばれている政策のなかで、もっとも強烈なのが年金改革(いちおう九四年六月の国会を通過している)である。その方式をかいつまんでいうと、掛け金をふやし、給与の一八・五パーセントを掛け金として、その運営だけで基礎年金と付加年金(現行)をプラスした新しい年金の柱とし、一八・五パーセントの掛け金のうちハ・五パーセントはその年度の年金支払いのために使い、ニパーセントはプライベートの保険と同じように、年金の保険料として支払うか、給与として受け取るかを各個人が決めることができる。

掛け金の負担は本人と企業が五〇パーセントずっで、六五歳で年金を受け取るさい、働いていた賃金の五二パーセントの収入になる。経済成長率を一・五パーセントとして、二〇一五年までに約二〇〇億クローネの削減になるという。現在六〇歳の人から適用する。また現行のパートタイムで働いている人は年金の対象から外すことにしている。

このほか、さまざまな工夫によって、経済成長が低くなると年金額は現在より減り、また平均寿命が延びると受給額は減らす仕組みにもなっている。日本の年金改革案が、国庫負担を二分の一にしようとしているのとは雲泥の差である。もっともスウェーデン人のなかには、「国庫負担を全廃するといっていても、運営がうまくいかなくなると、国が予算を出すことに修正するのがスウェーデンですよ」という声もあるらしい。

スウェーデンの医療費のなかで傷病手当金のウェイトは大きい。それは病気になったとき(その日)に電話をするだけでサラリーの九〇パーセントが保障されるというもので、過去、かなり″悪用”されていたフシがあった。政府はこの給付を八〇パーセントに下げ、二日目から給付を開始することにした。これだけでもかなりの効果があるといわれている。いわゆるズル休みによる不当利得を排除しようというねらいといってもいい。

2015年5月7日木曜日

陪審裁判について

熱湯をこぼしたのは本人のせいじゃないか、それを棚に上げて高額の賠償金をせしめるなんて「だから陪審制はダメなのだ」と言わんばかりに、「彼女は自分でこぼしたのだ」と書かれたプラカードを掲げるデモ行進の模様が伝えられたりもしました。

しかし、そんな悪い側面を打ち消したり陪審制をフォローするような報道は、なかなか日本には伝えられません。アメリカで「陪審制を廃止せよ」などという政治家はほとんどいません。むしろリベラルな政治家は陪審制を高く評価しており、日本の「自称リベラル」たちは、どうもそのことをあまりご存知ないようです。

実際のところ、陪審裁判についてのニュースには、それを支持するものも沢山あるのです。例えば、くだんのハンバーガー店火傷事件ですが、こんな報道もありました。

被告となった企業は、大火傷を引き起こす危険性を十年以上前から承知し、それまでに七百人以上の人々に火傷を負わせたにもかかわらず、消費者に何も警告せず、警告しなかった理由も説明できず、老女の火傷は治療にあたった医師が手がけた火傷で最もひどいものの一つだった陪審の評決は、これらの事実を元に慎重に下された妥当な結論だった。

2015年4月2日木曜日

グローバリゼーションの奇妙な相互作用

欧米諸国が日本の「悪い記憶」に追従するかどうかは、心理状態とグローバリゼーションの奇妙な相互作用に依存すると考えられる。一九九〇年代後期の日本では、企業経営者や消費者だけでなく、政策立案者にもデフレの心理が定着した。すなわち、企業はデフレによって、借金の利息の支払いや、元金の返済が困難になることを恐れ、負債を懸命に削減し続けた。また消費者は、いったん物価が下がり出すと支出を先延ばしし、やがて彼らの賃金低下が始まると、支出を削減せざるをえなくなった。さらに政府の政策立案者は、賃金低下を奨励していた。彼らは気づいていないかもしれないが、労働法を改正することによって、正規労働者に比べて賃金が低く、社会保障等の少ないパートタイマーや非正規労働者を、広く雇用することを許容したのである。

政策立案者がこれを実施しだのは、労働コストを引き下げることによって、企業を援助すれば、企業競争力を増強できると信じたからである。しかしその結果、世帯収入の減少をもたらし、内需が継続的に減退した。日本にとって救いとなったのは、グローバリゼーションであり、海外、とくに中国からの強い需要を利用して、輸出力を増強できたことである。このような相互作用は、今後の欧米諸国にとって、再びきわめて重大になるだろう。次の理由から、心理状態はとくに重要なのである。多くの人は、エコノミストが経済危機を予測できなかったことを批判している。この批判の一部が妥当でないのは、実際に多くのエコノミストが、危機が起こることを予測していたからだ。

その反面、妥当だといえるのは、経済危機の深刻さの程度と範囲を予測することは、現在の景気回復の力強さと本質を予測しにくいのと同様に、困難だったことである。困難だというのは、経済学が科学ではなく、その考えや調査結果を数字的方程式に集約できないからである。つまり、その根底は人間行動の考察にあるからだ。大きな衝撃が起こると、人間の行動は基本的に予想すらできない方向に変化するものである。すなわち、信頼は消え失せ、警戒が自信に取って代わる。信頼の消失は、信用市場がこのように停滞してしまった理由になると思う。また、人々がより警戒していることは、リーマンーブラザーズが崩壊してから、消費者と企業が、商品、たとえば新車やテレビ、それにコンピューターやその他の機器などの購入を取り止めて、その消費が突然落ち込んだことを見てもよく分かるだろう。このような反応の激しさと、信頼や信用の程度は、前もって予測できないのである。

2015年3月3日火曜日

技術をオープンにして互いの成長を目指す

世界のボリュームゾーンに参入できるチャンスが目の前にあり、そのチャンスを最大限生かし、当社のインバータ技術を外に出すいわばオープン化戦略に打って出たのです。格力電器と組んで中国の国内標準を押さえることができればその先は世界標準へと続く近道だと判断しました。中国は2000年代後半ごろから、環境問題に対する取り組みを強化してきた。そのなかで中国の空調業界は中国メーカーが得意としてきたノンインバータで省エネ開発を加速するか、新たにインバータ技術に取り組むかの選択を迫られていた。ダイキンと格力電器との協業は中国市場に大きな変化をもたらした。中国の業界は一気にインバータに向かって動いたのである。格力との提携は日系企業が自らのコア技術を最大限許される範囲で提供し、中国市場とローカル企業の成長発展に寄与する点で非常に好意的に受け止められているようです。

政府・官公庁からも謝意を示され、官公庁とのパイプ毛太くなりました。我々は早くから中国政府や大手ローカルメーカーを中心にインバータ技術を推進するよう働きかけてきました。中国市場で最大のシェアを持つ格力が当社との提携によりインバータを選択したことは業界に大きな影響を与え、業界か一気にインバータに傾くことになりました。結果的に、デバイス市場でも、ノンインバータに集中していた部品がインバータにシフトするようになり、安くて品質の良い部品を確保できる効果も生まれました。

また、業界のハードルが当社が得意とする技術領域にまで高まったため、安価な商品は淘汰され、十分戦える価格レベルに引き上げられました。当社は「普及市場」「ボリュームゾーン」での拡販を加速させ、今までローカルメーカーの独檀場であった内陸部での拡大にも拍車をかけたのです。もし、当社がコア技術をオープンにしていなかったら、中国はノンインバータによる省エネを決めていたかもしれない。あるいは、当社が手をこまぬいている間に、ほかの同様の技術を持つ日系他社あるいは海外のメーカーと組んでインバータ化を進めていたかもしれません。当社が技術に対するこだわりを断ち切り、閉じられた自前主義を捨てて速やかに協業への舵を切ったことが良かったのだと思います。

インバータ技術を開示するにあたって、技術陣の意識を覆っていた『自前主義』から脱皮する必要があった。部品から製品までをグループ企業も含めて自前で製造、販売、管理する手法は日本企業の強さの源泉だったが、新興市場を開拓するときにはコスト競争を阻害する要因になっていた。新興国の購買力や嗜好に対応したコスト競争力のある製品・サービスをスピーディーかつ大量に供給できなければ、今後のグローバル競争で勝ち残ることはできません。これまで多くの日本企業が志向してきた垂直統合型の自前主義では限界があります。技術が成熟化し、主要な部品をどこからでも購入できる状況では、コア技術で他社に差をつける戦略も通用しにくくなっています。コスト競争力がカギを握る新興市場では水平分業体制の構築が不可欠です。

ただし、他社も同様な戦略をとってくるため、次に重要になるのが生産量の確保です。数がまとまれば、良い部品を安く買えるバーゲニングーパワーを発揮できるようになります。そこで、自前主義を捨て、技術のオープン化戦略に出たのです。技術のオープン化戦略の要諦は、市場全体が拡大することにあります。技術をオープンにすることで仲間を作る。技術そのものがいくらすぐれていても、技術をクローズにして仲間作りに失敗すれば独りよがりの技術として市場そのものが立ち上がらず、製品カテゴリーも消滅することが多い。そのことを日本企業は理解すべきです。

2015年2月3日火曜日

大幅な金融緩和の効果

大幅な金融緩和の効果は大きかった。国債発行残高4兆7000億ドル(93年末)。うち民間保有分は3兆5000億ドル。地方債が1兆3000億ドル、合計では6兆ドルとほぼGDP並みの「負債を抱いた経済」で、金利が半分以下になったのである。金利が半分になれば、発行される債券その他の利子も下がる。ということは、金融緩和以前に保有していた債券の価値がその分上昇することでもある。その上昇分は、保有していた銀行等の金融機関に大きな利益をもたらし、あるいは投資信託を通じて個人を潤した。

当時、米銀はなお、S&L(貯蓄信用組合)問題が代表するような不動産貸付などの不良債権に悩まされていたが、こうした債券のキャピタル・ゲインはこれらを償却し、体質改善を進めるための原資ともなった。

また低金利は株式高騰をもたらして同じく保有者を潤したが、とくに企業は時価発行を拡大させた。資金を直接、間接に株式にふり向けてきたのは、低金利下で生計維持に腐心していた定年退職者などが中心になったものと見られ、株価は、ダウエ業株平均で88年末の2000ドルから93年末には2500ドルヘと上昇したのである。

こうして低金利によって点火され、いわば助走態勢に入ったアメリカ経済を、本格的に持ち上げることになったのがドル安である。ドルは80年代後半、プラザ合意を受けて大幅に下落したが、90年代に入っても低落は継続した。対円の下落がもっとも際立っていたが、アメリカの主要貿易相手国の通貨に対する変動を加重平均した実効為替レートで見ると、ドルは90年以降の変動だけを見ても、93年には約3%、95年秋には約5%下落している。この実効為替レートの変動は、一国のモノ部門の生産活動に直接影響を及ぼす要因となる。

まず、製造業関連のさまざまな指標の好転については、次のようなプロセスを通じてであったと考えられる。ドル安は、輸出価格の上昇をもたらし、あるいは輸出そのものを促進する。逆に貿易相手国は手取りを確保するために価格を引き上げるので、輸入に対しては防遇的効果を及ぼし、まず、これがアメリカの鉱工業生産の上昇を促す。実際、生産指数の上昇がとくに目立ったのは、産業用機械・設備、電気機械、輸送用機器・部品の三部門で、このメカニズムをよく示している。

鉱工業生産の上昇は、労働生産性の上昇にとって好ましい条件をつくりだす。生産性の算出に際して分子となっている付加価値生産額は、基本的に鉱工業生産と相伴って増大するからである。なおその際、分母となるのは総労働時間であるが、この減少にはリストラがおそらく影響していたであろう。

名目賃金を労働生産性で割ったものが単位労働コストだから、労働生産性が上昇すれば単位労働コストの安定につながる。そして単位労働コストの安定は、リストラに対する米国民の恐怖と引き替えに、コストーインフレの芽を摘むこととなり、ドル安による輸入価格の上昇傾向を相殺、抑制することにもなるだろう。

このように、アメリカ企業の努力の成果と見られがちな、90年代に入っての製造業部門の復権の背後では、ドル安が実際には大きな役割を演じている。国内外の経済活動をすべてドル・ベースで考えればよいアメリカに、ドル下落は「見えない補助金」をもたらし、これが経済をすみずみまで潤すのである。

また、アメリカは85年以降の経常赤字の累計からすると、対外純債務が95年末には実質1兆ドルを超えていると見られるわけだが、経常赤字は不安を伴いつつも、結局はファイナンスされる。こうして対外債務が増加してもそれがドル建てであるかぎり、アメリカはドル安により、結果としてその対外価値を減じてゆく。

巨額にのぼる為替による「補助金」を手にした製造業・モノづくり部門の好調は、マネー部門へと波及し、両者の好循環が生まれた。証券市場の上昇は94年以降ピッチを増し、ダウ平均は97年に入ると8200ドルにも到達した。こうした株価の高騰は、資産効果による消費の底上げ、企業の低コスト資金調達による設備投資の刺激などでモノづくり部門を支援したのである。

2015年1月6日火曜日

海外派遣の小手調べとしてのカンボジア派遣

自衛隊の活動は、そこにいたらない「後方における活動」にとどまるものだとして、従来見解との整合性をたもとうとした。だが野党側は、多国籍軍の実態そのものが「武力による威嚇」であり、発動されれば「武力の行使」となる。そうである以上、一体・分離の可分論は意味をなさず、かりに武器・弾薬をはずしたとしても、武力行使と一体にならない輸送協力などありえない、と手をゆるめなかった。結局、国連平和協力法案は、野党すべての反対で採決できず廃案となった。しかし、ここで新たな憲法解釈に向けた小手調べが行われた。すなわち「日本が攻撃を受けていない状況と地域」における自衛隊活動についての新たな理論づけである。

そうした場合、「武力行使と一体となるような協力は行えない」としつつも「ただし、実戦部隊と一体化していないとみなされる後方支援は合憲である」という解釈が打ち出された。「現に戦闘が行われている地域への輸送は行えない」といいつつヽ「あらかじめ戦闘が行われないと見通される地域への後方支援は可能である」という解釈である。こうした解釈は、「武力行使」の定義に、地域的限定ないし時間的分割をもちこむ仕分け合憲論といわれるものだが、その翌年提出された「PKO協力法」に生かされることになる。それだけでなく、九七年に決定された「新ガイドライン」(日米防衛協力のための指針)にも採り入れられ、「周辺事態法」(一九九九年)や、後述する「テロ対策特別措置法」(二〇〇一年)、「イラク特措法」に受けつがれていくことになる。憲法解釈に穿たれた蟻の一穴は、みるみる大きくなった。

そこでPKO法案にもどると、法案提出にあたり、政府側は湾岸戦争協力法案の失敗をふまえて、自衛隊派遣の目的を「国連決議にもとづく平和維持活動」、任務は「復興支援業務」(道路補修と橋の架け替えなど)に限定した。それをささえる、五つの原則からなる「基本方針」がもうけられた。すなわち、紛争当事者の間で停戦の合意が成立している、紛争当事者がPKO受け入れに同意している、特定の立場に偏ることなく中立の立場を厳守する、上記原則のいずれかが満たされない状況が生じた場合には、日本からの参加部隊は撤収できる、武器の使用は、要員の生命等の防護のために必要な最小限のものに限られる。

以上の「五原則」にもとづく歯どめをかけたうえで、日本のPKO参加がはじまった。肩書も「自衛官」でなく「国際平和協力業務」にしたがう「国際平和協力隊員」という別の名称が与えられた。かたちのうえでは別組織である。とはいえ一方で、「組織としての自衛隊の力を活用することが最適」との理由から、自衛隊員が「従前の官職を有したまま(協力)隊員に任用され」、また「派遣の必要がなくなった場合には、自衛隊に復帰するものとする」(PKO協力法第一二条)とされた。つまり帽子を二つにしただけで人間はおなじ。自衛隊と別組織といっても実質上は名目だけであった。

こうして一九九二年九月から一年間、第一次隊と二次隊の施設隊工兵)を中核とする各六〇〇人がカンボジアの土をふんだ。現地情勢は、ポルーポト派のパリ協定離脱表明により、条件維持に一時困難を生じたものの、政府は措置を適用せず、だから現地部隊に発動される事態にもいたらなかった。派遣部隊は道路補修を中断して、国民議会の総選挙を監視する各国監視員の安全確保と投票所の巡回にあたった。それらは活動計画にない任務だったので「道路偵察」の名目で実施された。期間中二人の死者(国連NGOボランティアの中田厚仁氏と文民警察である岡山県警の高田晴行警部補)を出したが、自衛隊員に死傷者はなかった。総選挙を円滑に行うための道路補修は予定どおり仕上げられた。