2015年11月3日火曜日

中国の新聞記者

記者が記事を書いても、どの記事をどのように採用するか、見出しをどのようにするか、新聞社にもそれなりの規則があると聞く。テレビにはテレビの規則がある。新聞記者は出世を望まないか? 否。新入社員は事実を報道する為に入社するのであろうが、時間と共に事実中心よりも出世や給料にも重点が移るのではないか。このようなことを率直に突っ込むので煙たがれた、ということもあるだろう。事実という点で、新聞とは異なるが一つ例を挙げる。第二次天安門事件(一九八九年六月)の際に、天安門広場で人民解放軍の戦車が広場のテント村を襲って人民をひき殺した、と報道されたことがある。結果的にBBCも一年と経たないうちにその事実は映像に写っていなかった。NHKも数年遅れてその事実を認めたという記事が小さく新聞記事に載った。

確かに映像だけを見ると戦車がテント村に突っ込んだ映像があり、その映像を見た人は当然、中にいる人を踏み潰したかに見える。あるいはそのように思い込む。その映像にはテントの周りにも人かおり、他のテントの中に人がいることも映っている。また、その他の地域で戦車と人民が戦ったという報道を同時に聞いている。人間の耳と脳は他の事実とあわせて見たものを判断している可能性が高い。映像とは恐ろしいものだ。私はここで映像に写っていなかったという事実をもって、その事実がなかったとは言っていない。ただその事実があれば、おびただしい血がその場に流れていたはずだ。その報道を私は耳にしていないだけだ。

新聞は本当に事実を伝える公器であるのか。事実を伝えるというのであれば、本当に中立か? 中立ならば何故いろいろな新聞社があり、その新聞社の考え方に違いがあるのだろうか。「事実」はだれがどのように見ても一つであり、同じであるはずだ。しかし、新聞記者はそれぞれ異なる会社に属している。事実の捉え方が会社によって異なっている。従って、同じ事実であっても、表現が異なる為、または同じ事実を新聞記者の経験や能力から違った角度から見るので読者は違った事実があるように見える。本当に事実が一つであれば、全ての新聞記者が書く事実は同じであるはずだ。しかし、それならば新聞社は何社もいらない。私の言いたいことは、新聞記者に気軽に事実の報道をしていると言っては欲しくないのだ。

中国の新聞記者は、国益の為に記者活動を行う。国益になる事実のみを報道する。政府が事実あるいは情報と判断した事実のみを報道する。日本の新聞記者と違うと言われている。従って、自分たちが国益の為に記事を書くので、そうではない社会の新聞の精神は理解できない。自分たちの判断から他国の新聞記者も同じと考える。即ち、中国の新聞記者は他国に出ればスパイ活動を実質行っている可能性が高い。その為に、中国は外国から来る新聞記者をスパイと思っている。従って、外国の記者の中国国内の活動を制限している。現在は、私か北京に常駐していた時代(一九八九年上一〇〇五年)と異なり、だいぶ開放されたが、当時は私たち民間の企業人のほうが自由に地方の企業に行けた。新聞記者はいちいち何処に行くか、どんな記事を書くのか申請して許可を取る必要があった。

いまではその許可もだいぶ自由になったが、一方、ビザの種類が新聞記者と私たち民間の企業人とは異なることになった。新聞記者も人間である以上、様々な考え方を持っている。日本ではそれが許されている。逆に言えば、様々な考え方を持っている以上、彼が報道する記事には彼の考え方が反映されると言うのが普通である。本当の意味での中立とは言えない、ということだ。私は、各種報道が中立であり、報道された事実が全てとは考えていない。(嘘があると言っているのではないが、最近は握造記事ややらせも摘発されているので、嘘の報道もあることになる。)二〇〇八年はギョウザ問題とオリンピックや四川省の大地震等、報道にはこと欠かなかったが、ギョウザ問題も中国のずさんなところを一方的に報道した。勿論、中国側にも落ち度はあるし、対応の仕方にも問題があるのは先刻承知の上だが、それにしても報道は偏向気味である。