2015年7月2日木曜日

組合指導部の統制

組合役員選挙への立候補を実力でかちとって以来、労働者たちは自信をもつようになっていた。彼らは職場をまわって討論を重ね、これらの不満と要求をひきだしたのである。とりわけ、有休についての不満が強かった。「自分の思い通りに使えない有休なんか、あったってなくたっておなじだぜ」「オレがこの前、風邪ひいて調子が悪かったと矢軽い仕事にまわしてくれって頼んだのに、あの野郎(職制)、ダメだっていいやかってよ」「それを組合にぶっつけようや」といったように討論がまきおこった。その結果がこの「要求書」である。職場で読みあげられると、職制が嘉山のところにやってきた。

「有休取得率を八〇パーセントに制限していることはない。他の要求は受けいれないけど、キミや東クンは有休を自由にとっているが、他のひとだって、そうしていいんだよ」当り前のこととはいえ、職制が有休の権利が労働者にあることを認めたのは未曾有のことである。組合指導部の統制をはずれて、職場で労働者たちが口をひらきはじめたのは、快挙というべきことだった。公然とした抵抗によって、職場の雰囲気が変りはじめたのである。

演壇中央に日の丸の国旗、左隣りの日産の社旗、そして右隣りに自動車労連旗。その下で、川又会長が挨拶し、石原社長が挨拶し、塩路労連会長が演説する。一九八一年一二月二六日、東京・歌舞伎座でおこなわれた創立四八周年式典の光景である。日産労使代表が前後して社貝のまえで演説するのは、創立記念日ばかりでなく、四月の入社式や八月の浅草・国際劇場での日産労組創立記念総会でも同様である。八月三〇日の組合結成日は休日となり、第二組合として出発した日産労組の誕生が、労使ともどもの祝辞によって飾られる。

ところが、八〇年末の日産創立記念式典で、塩路は、川又、石原をまえにしてこう述べてい「信頼というものをつくるには、汗も出るし、血も出るし、大変に重いものだと私は思います。そういう。信頼”というものを、日産の歴史を貫いていく大事な宝にしたいと考えて、私たちは追浜工場に。相互信頼の碑”を建てました。その信頼の碑が二〇年以上も経ったせいか、何故か歳月の重みに耐えかねているようにみえてなりません」歳月の重みに耐えかねている、と塩路がいう「相互信頼」の碑は、ブルーバードを送りだした追浜工場の正門わきにある。碑文は鮒宸愈初代自動車労連会長が起草し、揮毫はそのすぐそばに銅像となってたつ川又克二社長による。六二年三月にたてられたものである。

自己の権利を主張することも必要であり、そのために闘うことも華々しいが、闘争の嵐が吹きすさぶ憎しみの泥沼には、幸福の『青い鳥』は飛んで来ない。人智が進んで、いかに企業が近代化しようとも、その安定した基礎は所詮、昔ながらの人間関係にある。労使の相互信頼、それこそが日産の源泉であり誇りである」それが青い鳥なのであろうか、芝生におかれた碑を、あたかも抱きかかえるようにして、二羽の鳥がはばたく像がある。あるいは、この二羽が、労と使の代表を象徴しているのかもしれない。しかし、仔細にみると、それはたがいにそっぽをむいているのである。