2014年10月2日木曜日

美容室は社交場

美容界は戦後、日本の高度経済成長を背景に目覚ましい変化を遂げました。でもその礎は、戦前にできていたんです。「ハリウッドビューティサロン」の前身である美容室「メイズサロン」が神田三崎町に開店したのが一九二五年です。「ハリウッド美容室」と改名して銀座七丁目に登場したのが二年後、銀座全盛の時代でした。私かここで美容師として働き始めたのは、三〇年ごろアメリカから輸入された技術が導入された時期です。銀座では、山野千枝子さんや早見君子さんら一流の美容師が腕を競い合っていました。ヘアやメイクのお手本は主にアメリカ映画でしたから、仕事を終えると映画館に大急ぎで繰り出しました。

日本ではそれまで、メイクは花嫁さんの白塗りだけでしたが、そのころには上流階級の婦人たちが、コティ、ウビガンなど、ヨーロッパの化粧品を手に入れてメイクを始めていました。日本にはヘチマ水とバニシングクリームくらいしかない時代です。「ハリウッド美容」では、近くの美容講習所の片隅で洗濯せっけんを削ってシャンプー剤を作ったり、マッサージ用のコールドクリームを洗面器で煮たりしていました。銀座の美容室は社交の場でした。女性たちはいい振り袖を着たり、冬はシルバーフォックスのストールを何本も巻いたりして集まりました。髪や顔に磨きをかけてダンスホールなんかに出かけていくんですから、当時の上流婦人たちは、今よりずっと贅沢でしたね。柳が揺れる銀座通りを、そんな女性たちが閥歩して、浴衣姿の女性が、うちわであおぎながら涼んでる。まるで絵巻物のような風景でした。そのころよく見えたのが”国境を越えた恋の女優、岡田嘉子さんでした。パーマをかけた第一世代ですね。

三五年からは、「ジュン牛山」という名で銀座の店を任され、雑誌や新聞にヘアスタイルやメイクを発表するようになりました。和服が好きなので、奇抜な発想のデザインや着付けも次々に発表しましたが、和服は伝統の世界ですから批判も受けました。目元にポイントを置いたメイクが盛んになり、まつげをカールさせることが流行していました。三七年には国内で初の「マスカラ」を発売、商標登録しました。若手美容師として、また時代のファッションリーダーとしても、怖いものなしでした。美容室も大阪、名古屋、福岡などに支店を出すまでになりましたが、戦争の激化で、おしゃれは禁止の風潮が色濃くなりました。

国民運動の標語になり、ヘアスタイルも「カールは前三つ、後ろは一つまで」というお触れが出ました。四二年になると英語が禁止となって、「ハリウッド」という名前はいけないというので、「牛山美容室」と改めました。やがて店内のパイプイスまで金属供出するような時代になり、使っていた美容師たちを親元へ帰し、四四年に全店閉鎖ということになりました。子供時代の一番の思い出は、塩の上で遊んだことです。雪の上を歩くような感触でしたね。山口県防府市の生家は大きな塩田を営んでいました。三十人以上の男衆が働いていて、朝鮮半島から来た人が多くいましだ。大きな釜でニガリを煮出す様子などを見て育ちましだから塩の作り方は詳しいですよ。でも、父の記憶というのはほとんどないんです。

三歳のころ、腸チフスがはやって姉と私以外の家族全員が感染してね。私は親類に預けられました。ある夜、そこのおばあさんに促されて外へ出ると、遠くの山に、かがり火のような灯が燃えているんです。「あの灯に向かって手を合わせて拝みなさい」と言われて、そうしたのを覚えています。それが父の弔いの火でした。母は助かりましたが、二十八歳で幼い四人の子を抱えて未亡人です。しばらくは塩田経営を続けましたが、二里(八キロ)ほど離れた実家に私たちを連れて帰りました。父の弟が、「二人なら子供を引き取る」と申し出たそうですが、母は一人も手放せず、自分で育てることにしたそうです。