2015年1月6日火曜日

海外派遣の小手調べとしてのカンボジア派遣

自衛隊の活動は、そこにいたらない「後方における活動」にとどまるものだとして、従来見解との整合性をたもとうとした。だが野党側は、多国籍軍の実態そのものが「武力による威嚇」であり、発動されれば「武力の行使」となる。そうである以上、一体・分離の可分論は意味をなさず、かりに武器・弾薬をはずしたとしても、武力行使と一体にならない輸送協力などありえない、と手をゆるめなかった。結局、国連平和協力法案は、野党すべての反対で採決できず廃案となった。しかし、ここで新たな憲法解釈に向けた小手調べが行われた。すなわち「日本が攻撃を受けていない状況と地域」における自衛隊活動についての新たな理論づけである。

そうした場合、「武力行使と一体となるような協力は行えない」としつつも「ただし、実戦部隊と一体化していないとみなされる後方支援は合憲である」という解釈が打ち出された。「現に戦闘が行われている地域への輸送は行えない」といいつつヽ「あらかじめ戦闘が行われないと見通される地域への後方支援は可能である」という解釈である。こうした解釈は、「武力行使」の定義に、地域的限定ないし時間的分割をもちこむ仕分け合憲論といわれるものだが、その翌年提出された「PKO協力法」に生かされることになる。それだけでなく、九七年に決定された「新ガイドライン」(日米防衛協力のための指針)にも採り入れられ、「周辺事態法」(一九九九年)や、後述する「テロ対策特別措置法」(二〇〇一年)、「イラク特措法」に受けつがれていくことになる。憲法解釈に穿たれた蟻の一穴は、みるみる大きくなった。

そこでPKO法案にもどると、法案提出にあたり、政府側は湾岸戦争協力法案の失敗をふまえて、自衛隊派遣の目的を「国連決議にもとづく平和維持活動」、任務は「復興支援業務」(道路補修と橋の架け替えなど)に限定した。それをささえる、五つの原則からなる「基本方針」がもうけられた。すなわち、紛争当事者の間で停戦の合意が成立している、紛争当事者がPKO受け入れに同意している、特定の立場に偏ることなく中立の立場を厳守する、上記原則のいずれかが満たされない状況が生じた場合には、日本からの参加部隊は撤収できる、武器の使用は、要員の生命等の防護のために必要な最小限のものに限られる。

以上の「五原則」にもとづく歯どめをかけたうえで、日本のPKO参加がはじまった。肩書も「自衛官」でなく「国際平和協力業務」にしたがう「国際平和協力隊員」という別の名称が与えられた。かたちのうえでは別組織である。とはいえ一方で、「組織としての自衛隊の力を活用することが最適」との理由から、自衛隊員が「従前の官職を有したまま(協力)隊員に任用され」、また「派遣の必要がなくなった場合には、自衛隊に復帰するものとする」(PKO協力法第一二条)とされた。つまり帽子を二つにしただけで人間はおなじ。自衛隊と別組織といっても実質上は名目だけであった。

こうして一九九二年九月から一年間、第一次隊と二次隊の施設隊工兵)を中核とする各六〇〇人がカンボジアの土をふんだ。現地情勢は、ポルーポト派のパリ協定離脱表明により、条件維持に一時困難を生じたものの、政府は措置を適用せず、だから現地部隊に発動される事態にもいたらなかった。派遣部隊は道路補修を中断して、国民議会の総選挙を監視する各国監視員の安全確保と投票所の巡回にあたった。それらは活動計画にない任務だったので「道路偵察」の名目で実施された。期間中二人の死者(国連NGOボランティアの中田厚仁氏と文民警察である岡山県警の高田晴行警部補)を出したが、自衛隊員に死傷者はなかった。総選挙を円滑に行うための道路補修は予定どおり仕上げられた。