2015年12月2日水曜日

「同じで異なる」ことが実感される

新世紀を迎えた今日の世界で、文化はさまざまな形で問題となり、複雑に存在しています。

一方でグローバリゼーションのかけ声とともに、どこでも同じの画一的な文化が地球を覆う動きが急です。たとえば、アジアの主な都市では景観や生活様式がきわめて類似の形になりつつあり、人々の服装や食べる物も同じ傾向を強めています。

他方、日常生活で話される言葉や人々の行動、そして事物のとらえ方や価値の置き方には、それぞれの国や社会や地域の違いが強く反映されていて、外観は同じように見えて中身は大きく異にすることが多いのです。

日本から一歩外へ出れば、近隣国の首都であるソウルでも北京でも「同じで異なる」ことがすぐさま実感されるでしょう。ま几ロンドンからベルリンへ行くときにも、同じヨーロでハとはいいながら、本当に「同じで異なる」ことの多いのに驚かされます。かつてドイツの文化哲学者ベンヤミンは、日本語の「パン」を意味するブレッド(英語)、パン(仏語)、ブロート(独語)の間に越え難い意味的な差違があることを指摘しました。同じことは日・韓・中の言語と文化の間にも、たとえば「ごはん」や「麺」といった言葉の指すものの違いに示されるでしょう。

ソウルや北京を訪れても、人々の日常的な言動に示されるものの違いに驚くことがよくあります。北京での常宿の大ホテルの三階には「麺」と大きく看板を掲げたレストランがありますが、そこで中国各地の多様な麺に接してうれしい驚きを味わうとともに日本のソバやうどんと同じ料理に出会わないことにも驚きます。

「麺」差には東アジアの国々の間で大きなものがあるようです。食べるといっても、着るといっても、文化間の違いを感じます。色彩の用い方も、食べることの好みも、一日でもながくトれば大きく異なることが解ってきます。同じ「東アジア」とよばれても、その間には異文化が歴然として存在することがはっきりとしてきます。