2013年12月25日水曜日

「自画像」への固執

友人ですら重荷になる劉生を、反対の茫場のものが許すわけがなかった。洋画壇の重鎮で良識派と自称する石井柏亭は、生前から劉生批判を行なっているが、岸田劉生と木村荘八の二人を批判して、「二氏が従来の自己主張、唯我独吟的説は多少匪の反感を買った」と書き、また「反感をもつものは二氏をして誇人忘想狂なりとした様である。また『御山の人将我一人』という考えぱ根本的に間違っている」という酷評と非難をあびせている。

これは大正三年(一九一四年)刊行の雑誌にのっている「岸田木村両氏の作品」と題する小文であるが、さらにここで次のようなことをいっているのが興味深い。「岸田氏は以前から自画像の画家である。氏はいままでに果して何枚の自画像をえがいたろう。それは実に驚くべき多数についていようと思う。私などはこれまでほとんど自分の肖像をかこうと企てもしなかったし、またかくことに興味をおぼえそうもないから絶えず自画像をかき得る岸田氏の性質を特に異とするものである」

実際、劉生は二十二歳から二十三歳にかけて数多くの自画像を描いており、一ヵ月に一点ないし二点というねりで自分白身を執拗に描きつづけている。「ナルシストはよく鏡を見る」ということをここで思い出してもらうと、劉生のこれまでのさまざまな人からの人物評がよく理解されるであろう。

劉生の娘麗子によれば、「一九歳までは頬が円く幼な顔が残っている。それが二二歳頃の写真になると、すっかり頬の肉が落ち、額には太い青筋が立ち眼は鋭くなり、やせた手の甲には青筋が縞のように浮き出ている。ひとを寄せつけない陰うっな孤独が父の全身を包んでいる感じがする」と述べ、「ひとにぱわからなかったが、この時父は自分を天才にまで高めようとして全力で運命と戦っていたのだ」とむすんでいる。

おそらく劉生は、青年前期、中学三年中退時の不安定な状態からぬけ出すために、何か必死な努力を重ねていたにちがいない。これはちょうど肖像画に熱中していた時期に重なるわけで、第一回生活社展(一九一三年の出品目録の中に「自分の行く道」と題して次のような文章を書いている。

2013年11月5日火曜日

地位を放棄する指導者

標高三〇〇〇メートルを超える、夏でも肌寒い峠であり、出席者全員が数時間はそこにいることになるので、当然トイレも設けられていた。こういう場合、近いところに王家用、そこから少し離れた遠いところに来賓用、と二つ設けられるのが常である。一人の参列者が儀典係にトイレはどこかと尋ね、係が来賓用のトイレに案内しようとしたところ、どこからともなく「近い方が空いているから、そちらに案内するように」という国王の声が聞こえてきた。わたしは、なんと観察が鋭く、気配りのある人かと、改めて思った。それは、治世者に必須の資格であると言えばそうであろうが、それを目の当たりにしたわたしは感動を禁じえなかった。

二〇〇六年にアメリカの『タイム』誌は、「その権力、能力、道徳的模範により世界を変えつつある人たち」一〇〇人を挙げたが、その中の「指導者と革命者」二二人の一人にブータン第四代国王ジクメーセングーワンチュックを数えている。そして、こうコメントしている。「一九九八年に絶対権力を放棄し、昨年国王解任を可能にする新憲法草案を全国民に配布したジクメ国王は、静かに革命的前例を作りつつある。大半の政治家は、権力掌握に貪欲であり、権力に固執するが故に潜在的に疑わしい。その中で、国民自身の必要を、自らのそれに優先させるかのように、自分から地位を放棄する指導者をどう評価すべきだろうか?」

第四代国王が名君であったかどうかといった政治的判断は抜きに、わたし自身が限られた範囲で見聞した国王自身の個人的な身の処し方から、一個人としての国王には尊敬と賞讃の念を禁じ得ない。一九八一年に国立図書館顧問として赴任した当初、国王を親しく知る機会もないままに、先入観から国王にたいしてむしろ否定的な印象を抱いたことを恥じる次第である。いずれにせよ、第四代国王の三四年に及んだ治世は、ほぼ国王親政であったといってもよく、その間のブータンの歩みと近代化は、実際のところ前述した国王の人柄、性格、信念の忠実な反映ということができる。次章でそのいくつかの具体的な側面を見てみることにする。

近代化・経済発展は、世界中の発展途上国にとって避けては通れない課題であるが、発展途上国が自発的に取り組むことはあまりなく、大半は先進国からの技術・資金援助のもとに、先進国のモデルを追随することになる。しかし、目標となる欧米的モデルは、当然のことながら、文化、宗教、社会といった人びとの生活の基本的な部分で、アジア・アフリカをはじめとする発展途上国のそれとは相容れなくはないにしても、歴史的にまったく異質なものである。それ故に近代化・経済発展が進むにつれ、様々な問題が生まれてくるのは必然であり、現に多くの発展途上国がそれに直面している。

欧米諸国以外で唯一先進国の仲間入りを果たした日本も、この観点からすれば例外ではなく、明治以来の「模範的」近代化、目覚ましい経済発展は、社会的・精神的な分野で様々な問題を生んでおり、その深刻さは、近代化・経済発展の成功度に比例していると言えるであろう。この点、最も遅れて近代化に着手した国の一つであるブータンは、多くの先輩発展途上国の例を他山の石として観察することができたが故に、同じ過ちを犯すことなく、弊害を最小限に止めるための措置を講ずることができた、と言える。

2013年8月28日水曜日

危うい移住ブーム

それにしても、なぜ彼らは石垣島へ、あるいは沖縄へ移住するのだろう。ある地元紙が、二〇代から三〇代の人に調査すると、こんなことを言っていたという。「本土で行き詰って逃げてきた」「沖縄に行けば癒されるんじゃないか」「物価も安そう」「自分探しのためにやってきた」「自分探し」を別にすれば、動機はきわめて単純だ。というよりも、聞いてて阿呆らしくなってくる。本土で行き詰って逃げてきたって?本土でダメだったヤツが、沖縄に来て何とかなるはずないだろ。そんなに甘くはないぜ、と言ってやりたい。「癒されたい」という感覚は、移住者の誰もが抱いているように思う。渡嘉敷島で聞いた話だが、「癒されたい」女性が毎年どっと押し寄せ、移住とまでいかないまでも、長期で働く女性が少なくないそうだ。そういった女性が島の若者たちと恋愛して結婚し、いまや民宿やおみやげ屋の女将の多くは本土出身の女性だという。

数年前の三月、那覇の泊港でお茶を飲んでいたら、無性に船に乗りたくなって、気がついたら渡嘉敷行きのフェリーに乗っていた。行くあてもないので、パンフレットに載っていたホエールウォッチングに行くことにしたのだが、ウチナーグチがまったくできないガイドに、どこの出身かと尋ねたら、徳島県だと言われた。さて、意外に多いのが、物価も安そうだから生活しやすいだろうという幻想である。たしかに食料などの物価は安い。が、すべてが安いわけではない。逆に高いケースも少なくない。電車が走っていない沖縄で、自家用車以外に足となるのがバスだが、たとえば那覇市内のバスターミナルから約一七キロ離れた観光地「ひめゆりの塔」まで七九〇円。那覇から約二五キロの沖縄市までは七七〇円。東京なら新宿から新百合ヶ丘までに相当するが、小田急の電車代なら三〇〇円と半額以下である。

特に乗り換えなどがあると、かなり割高になる。先日も知念からうるま市まで行くのに、与那原で乗り換えたら1000円近くかかった。それも、乗り換えがうまく連携していないから、三時間もかかった。さらに、働くとなれば給料も安い。それでも石垣島で暮らせるだけで幸せと思えるなら、石垣島に住むのもやぶさかではないだろう。たとえホームレスになっても、気温は一五度以下にならないので凍死する心配がないだけ安心かもしれない。地元の不動産業者によれば、五、六年前から団塊の世代が土地を求めて石垣島にやってきたという。

それにしても、東京都から神奈川県に移り住むことを「引っ越し」というのに、同じ日本国内でありながら、沖縄県に移ることをなぜ「移住」というのだろうか。沖縄が本土から遠く離れていることや、本土とは違った独特の文化があることが、一種独立国のようなイメージを抱かせるのかもしれない。「移住」という言葉をよく耳にするようになったのは〇五年頃だ。本土からの移住者が、最初に求めたのが石垣島だった。石垣市都市建設課の破座真保幸さんによれば、そのために沖縄の中でも石垣島が真っ先にバブルに見舞われたそうである。「石垣島で不動産が値上がりしたのは、過去に沖縄返還後とバブル景気の頃で、今は第三の波ではないかと言われています。沖縄の知名度が上がり全国ブランド化したこと、石垣空港の建設が昨年決まったことなどがありますが、共同住宅の建設数は〇六年がピークで、〇七年から動きが鈍くなりました」肢座真さんは役人とは思えない明快なもの言いだった。

なぜ与那国島や西表島ではなく石垣島への移住だったかというと、ここが大病院のある最南端だったからである。本島と同じで、石垣島でも彼らが求めたのはやはり「夕陽」と「海」であったため、島の北西部にある米原、山原、吉原といった、いわゆる「裏石垣」に集中した。島を時計回りに、川平湾から米原に向かうと、小高い丘に都会風の家並みが突然あらわれる。高台に立つと、海が一望に見渡せるのだが、あいにく私か訪ねた日は曇天だった。天気さえよければ、燦めく海に沈む夕陽は一幅の絵になるという。「夏にそんな光景を見たら、衝動的に買ってしまうね」


2013年7月4日木曜日

インフレ誘導

本当に雇用に関する規制緩和の理念を信じているのであれば、相対的に給与の高い中高年やOBの処遇をこそ流動化させるはずなのです。消費性向の低い中高年が貯蓄として死蔵していくことになる部分を優先的に守り、もともとお金のかかっていない現場の若者の雇用の部分だけさらに搾り上げるというのは、実はウェットそのものです。こういう日本的な部分まで自分のせいにされてしまっているアメリカもいい面の皮ですね。マクロ政策では実現不可能な「インフレ誘導」と「デフレ退治」「生産性上昇により人口減少に対処」「経済成長率至上主義」と並べて疑問を呈しておきたいのが、マクロ政策による「インフレ誘導」、あるいはそのマイルド版である、マクロ政策による「デフレ退治」です。前者は、所得が一部富裕層の貯蓄として蓄積するばかりで消費に回らないことを問題視し(それ自体は正しい認識ですが)、ある程度のインフレ状態(物価の上昇)をもたらすことで、「貯金がインフレで目減りする前に使ってしまおう」という行動を喚起しようとするものです。これを主張する方々が「リフレ論者」です。

そうできたら本当にいいですよね。でも「インフレ誘導」というのは、どうやったらそういうことになるのか道筋が見えない提言です。これは「生産年齢人口減少・構造的な供給過剰・商品・サービスの単価低下」という現象が続いている日本において、「余っているものでも何でも値段が上がる」という状況を作るということですよ。たとえば標準価格米の古米でも値段が上がるというような事態を何らかの手段で実現できると、本気で唱えていただかねばならないことになります。その際に、「日銀が金融緩和をして貨幣供給を増やせば物価は上がる」というようなナイーヴなことをおっしやっても説得力はありません。日本が実質的なゼロ金利状態になってから十数年、景気の悪かった時期はともかく「戦後最長の好景気」だった〇七年にも、その中でも個人所得の大幅な増加が起きた〇四-〇七年においてさえ、一向にインフレ傾向にならなかったということを、どうお考えなのでしょうか。

その理由が、所得が高齢者の貯蓄に回ってしまったことと、生産年齢人口減少・構造的な供給過剰にあることは、すでに延々と説明してきた通りです。この高齢富裕層ときたら、金融資産が〇八年の一年間で一一〇兆円、七%も目減りしたというのにまったく実物消費をしようとはしなかった(実際問題その間も小売販売額は増えていません)、筋金入りのウォンツ欠如、貯蓄=将来の医療福祉負担の先買い死守、というマインドの連中ですよ。仮に「インフレ期待」が醸成されたとしても、じっと耐えて金融資産を抱えるだけなのではないでしょうか。

話を簡単にするために、「生産しているのは車だけ」という国を考えましょう。その国では、ベビーブーマーが高齢者になって退職する一方で子供が少ないために生産年齢人口がどんどん減っており、車は全自動化ラインでロボットがどんどん製造できるのですが、肝心の車を買う消費者の頭数が減ってしまっています。結果としてメーカーには大量の在庫が積み上がり、仕方ないので折々に採算割れ価格で叩き売って処分されているものとしましょう。当然その国のマクロ論者からは「わが国はデフレである」という解釈がなされますね。ではその国の政府が札をどんどん刷れば、車の叩き売りは行われなくなって販売価格は上がるのでしょうか。

答えは、仮に政府が刷ったお札を公共事業か何かでどんどん使って国民にばらまいたとしても、それを受け取った国民が車を買う台数には生産年齢人口減少という制約がかかってくるので(もう車を十分に持っている人は車ではなく何か他の製品を買うので、やっぱり車はそうそう売れないのです。何か他の人気商品の価格は上がり、結果として総合指標である「物価指数」も少しは上がりましょうが、国の主要産業である車産業の製品価格が低迷を続ける事態には何ら変わりがありません。車だけではなく、住宅でも、電気製品でも、建設業でも、不動産業でも、およそ戦後の生産年齢人口激増期に潤ってきた多くの主要産業が、同じように顧客の頭数の減少・需要の減少というミクロ要因に悩んでいる日本の状況はこのたとえ話と本質的には同じです。







2013年3月30日土曜日

シャッタースピード狂想曲

人間の目が持っている遠近感と大きくかけ離れた独特の個性を持ったレンズを紹介してきましたが、共通していえることは、いずれも非現実の世界だということです。カメラのシャッターダイヤルには、B(バルブ)から始まり、二千分のI、四千分の一 といった数字が刻まれています。いずれも秒を指す数字ですが、最近の高級品には三十秒から八千分の一まであるものもあります。残念ながら筆者は、まだ撮影で八千分のIはおろか二千分の一秒のシャッターも切ったことはありません。仕事でも趣味でも、おそらく一生使うことはないでしょう。

いったい日常のどんな場面で使えるだろうかと、あれこれ考えてみましたが、まったく見当がつきません。ごく一般的な撮影に使われているストロボの閃光時間は、機種によって多少の違いはありますが、五百分のIから一万分の一秒といわれています。シャッタースピードに換算すれば八千分の一秒を超えているわけですから、何をいまさら、と思うのです。

考えてみれば、カメラの八千分のIというシャッタースピードは、太陽光が燦々と輝いているようなところで使われるものでしょう。一方のストロボ光は、スタジオ撮影のような暗い場所での主光源か、太陽光など他の主光源の補助光として使われます。つまり、八千分の一や四千分のIといったシャッタースピードは、とんでもなく明るい場所か被写体以外には使えないが、同じような早ワザを持つストロボ光は、主光源にも補助光にもなり得るということです。もう一度、シャッターダイヤルをよく見てみると、八千分の一秒までついているカメラのストロボが使える最高スピードは1/250秒です。ちなみに、二千分の一秒のカメラは1/60秒か1/80秒です。

日中シンクロといって、太陽光線が強いときなどに、ストロボ光を補助光として、顔にできる汚い影を消したり、逆光で暗くなった部分を明るくしたりすることがありますが、カメラによっては、ストロボがシンクロ(同調)する時間が1/80秒や1/125秒では明るすぎ、もっと速いシャッターを切りたくても、1/250秒では画面の一部に光が回り切らないことがあります。

ここでシャッターのメカニズムについて説明しておくと、少し前までの一眼レフカメラのフォーカルプレーンシャッターの場合、二枚の幕が一定の隙間を開けて左から右に走り、その隙間を通った光がフィルムを感光させます。走る幕のスピードは同じでも、隙間が広ければ光が多く遅いシャッタースピードに、狭ければ光が少なく速いシャッタースピードになります。ストロボは数千分の一秒という早さで光るので、シャッターの先の幕が右に走り終わって次の幕が走り出すまでの全開した瞬間に発光しないと、フィルム全面に光が届きません。つまりシャッターが全開状態になるいちばん早い瞬間が、シンクロするスピードの限界としてダイヤルに表示されているわけです。

いまやクラシックカメラと呼ばれる昭和三十年、四十年代のカメラのシンクロスピードがだいたい1/60秒、昭和五十年代でI/80秒です。近年になって、薄い数枚の金属板が上下に高速で走るシャッターが開発されて1/125秒が現われ、ついには1/250秒にまでなったわけです。カメラについている最高スピードとストロボのシンクロスピードとは、当然ながら関連があり、シャッター幕をより速く走らせるメカニズムが開発された結果、全開する瞬間を1/250秒まで可能にしたのです。