2016年4月2日土曜日

冷戦後の展開

このように冷戦期の米国の南アジア政策は、概してパキスタンに軸足を置いて展開されてきた。しかしソ連崩壊による冷戦の終焉は、「ねじれ冷戦構造」をも崩壊させ、米国の南アジア政策がパキスタンからインドにシフトする構造的な変化を産み出したのである。しかしこの変化は冷戦後直ちに現れたわけではない。軸足の転換が明瞭となったのはクリントン政権の後期に入ってからである。パキスタンが米国の期待に反する政策を採り続けたことが、クリントンの南アジア政策に大きな変化をもたらしたのである。

米国は対外政策において民主主義の拡大、核不拡散、テロ対策を重視していたが、パキスタンはことごとくこれに逆行する政策を採り続けた。アフガニスタンにおけるイスラム原理主義タリバン政権への支持、国際テロリストの頭目とみなしていたオサマ・ビン・ラディンの国外退去問題への消極的な取り組み、核不拡散条約への不参加と九八年の核実験、カシミールにゲリラを送り込んで起きたカルギル紛争、そして九九年の軍事クーデター。二〇〇〇年三月にクリントンが南アジアを歴訪した際に、インド・バングラデシュでは五日間、パキスタンはわずかに五時間であったのは、軸足の転換を象徴的に示したものである。米国大統領の訪印は七八年のカーター以来二十二年ぶりであり、核不拡散条約加入問題についてはインドはかねての主張を曲げなかったが、首脳・閣僚会談の定例化、科学技術協力、貿易投資の拡大などで合意した。

インドではこの結果を大成功と見る意見がマスメディアにおいても支配的であった。核問題や国際的なスタンスについて、インドの立場に賛同しないまでも米国に理解させることができたこと、経済自由化以降最大の関心事である経済問題で、九二年以降増え続けていた貿易や米国からの投資を加速し、ITソフト産業のさらなる発展を米国との協力によって促進できることが期待できたからである。米国にとっては、冷戦期の概して冷たいままで推移した米印関係を清算し、台頭しつつある大国インドと新世紀に向け安定した新たなかかわりを構築するうえで、大きな意義を持つものであった。

2016年3月2日水曜日

脱冷戦のニューリーダー

ガリ氏は一九二二年にカイロで生まれた。父親は裕福な地主で祖父が首相、叔父が外相を務めた名門一家である。カイロ大法学部を卒業した後、パリ大で博士号を取り、両方の大学で教鞭を取った。本来は学者だったが、七七年にサダト大統領が外交担当の国務相に抜擢したことから政治家の道に入り、中東和平のキャンプーデービッド合意にも深くかかわった。

その後、十四年にわたってエジプト外交の中枢に位置し、九一年から外務担当副首相の座にあった。趣味は読書、卓球、音楽。本人はキリスト教コプト教徒で、レイアーマリア夫人はユダヤ系のエジプト人。国連内では、「エジプト副首相とは言え、権力の傍流にいた人物。性格は果断だが、主流の意見を聞く耳を持たない」という批判がある一方、「P5にも歯に衣着せぬ直言をする冷戦後の指導者」という高い評価もある。

積極的にイニシアチブを取るガリ氏の性格にもよるが、同時に、冷戦構造のしがらみの中で調整型の資質が求められたデクエヤル前総長とは違って、脱冷戦の不透明な時代が要請した新しいリーダーという側面があったことも見逃せないだろう。

六代事務総長になったガリ氏の性格を物語る逸話として、こんな話が伝えられている。選挙の前に主要国は、ガリ氏を推す条件として、あまりに硬直化した事務局を大幅に組織改革するよう迫った。幹部ポストを削減し、大国が自動的に要職を占める慣行を改めるようにとの要望だ。オーストラリアやメキシコ、インド、オランダ、アフリカなどの代表は二度、ガリ氏を訪問し、その簡素化の約束を取り付けた。

2016年2月2日火曜日

憲草の両面性

すでに何度か触れたように、こうした「オリーブ」の側面と同時に、憲章は「牙」の部分も併せ持っている。この一般原則の例外として、二つの重要な例外を定めたのである。第一は、もう言うまでもなく、第七章による強制措置であり、違反者には加盟国が一体となって制裁に踏み切り、武力による強制行動に踏み切る、という「集団的安全保障」の考え方である。そして第二は、憲章五一条文に認めた「個別的・集団的自衛権」の例外規定である。

憲章は、戦争の概念を追放することによって、不戦条約の精神を徹底させたが、同時に、国際連盟や条約には実効力がなかったという反省に立って、強制措置発動の条項を整備した。その第一条の「目的」に、「国際の平和と安全を維持すること。

そのために、平和に対する脅威の防止および除去と、侵略行為その他の平和の破壊の鎮圧とのため有効な集団的措置をとること」をあげ、続けて「並びに平和を破壊するに至る恐れのある国際的な紛争または事態の調整または解決を、平和的手段によって、かつ正義および国際法の原則に従って実現すること」と続けていることからも、その両面性は明らかだ。

このため、憲章は安保理に強大な権限を与え、詳細な規定を用意して、集団的安全保障としての武力行使を是認した。つまり、平和的手段による紛争処理という精神は、第六章の「紛争の平和的解決」に委ね、そのメカニズムが十分に機能しない、あるいは失敗した場合に備えて、経済制裁などの強制措置から、武力を含む強制行動へと段階的に制裁を強める方法を準備した、と見ることができる。

2016年1月5日火曜日

民法ではなく税法によって、救済措置を用意すればいい

実際に扶養や介護のための費用負担でもめるのは、親に相続すべき資産があるときよりも、親になんの資産もない場合のほうが、うんと多いはずである。

そうした場合は、民法ではなく税法によって、救済措置を用意すればいい。具体的には、兄弟均等の原則を超えて負担した場合に限り、超過負担をした子に対して、その割合と期間に応じて算出した一定額を、本人の相続に際して相続税の課税対象から控除する、つまり免税額をふやす、という手法が考えられる。

親のためにあえて通常より重い負担をしたのだから、この程度のインセンティブを与えるのは、福祉のための財政負担の縮減を意図して在宅介護を推進する国としては、当然の措置だろう。

当事者間の契約か家庭裁判所の調停と死亡届のコピーさえあれば、簡単に事実を証明できるのだから、手続き的には簡単である。子にも相続税の対象になるだけの資産がなければ、その子つまり孫の代までを限度として免税特権を継承できることにすれば、相続と扶養・介護をめぐる合理性と公正は、ほぼ確保できるのではないか。

民法の大改正は当面最大の課題だが、これはあくまでも一例にすぎない。こうした法制上の混乱は無数に存在している。それらを徹底的に洗い出して一本の抜本改正法で一挙に整頓することは、掛け声倒れの「政治改革」や「行政改革」、あるいは「経済構造改革」とは比較にならないくらい、日本の社会を変える。日本人の意識も変える。

そして豊かさを獲得した反面でこれ以上成長する余地が乏しくなった日本という国を、オトナの分別と責任感を供えた成熟した国につくり変えていくうえで、重大な意義と効果を持つことになるだろう。


高齢者、超高齢者の介護は、あくまで個別の問題である。一般論や平均値にはなんの意味もない。経済的にも生活面でも、基本的には自力で対応できる超高齢者もいる。どちらか一方しかできないのもいる。どちらもできないのもいる。

資産家から素寒貧まで、寝たきりから達者な人まで、よくできた人から超エゴイストまで、の天地の開きの中で、背負わなければならないのはその中のただ一点に位置している。過去の親子関係や兄弟仲、嫁と姑・小姑との関係もハネ返ってくる。