2014年6月16日月曜日

学ぶべき現実感覚

もちろんこれに対してジャーナリズムは客観性よりも、批判と解釈とを重視すべきであるという意見もある。それは客観的中立性という、ジャーナリズムの政治的責任を批判して、むしろ変革のために政治に積極的に介入することを理想とする考えである。しかしながらこのような政治的ジャーナリズムは、大規模なマスーコミュニケーションのメディアとして、止まろうとする限り結局、客観性という職業規範に戻らざるを得ないであろう。

すなわち今日のマス・メディアは、意見の異なる多数の読者や視聴者を相手にしなければ経営が成り立たない。従ってマスーメディアは多くの異なる読者が、比較的客観的であると考えるような内容を持だなければならないであろう。またメディアの流すニュースが、現実をゆがめるものである場合、その現実に直接触れることのできる人々は、客観性をゆがめたジャーナリズムを二度と信用しないであろう。こう考えると現代の社会において、唯一の可能なジャーナリズムの形態は、やはり科学的方法に基づいた客観的報道という、ゲイトキーパー型のジャーナリズムということになる。

こう考えると社会科学とジャーナリズムとの問には、方法論上の根本的な相違はないと言わなければならない。両者の間の相違は客観的な報道という厳しい仕事を、大学の研究者と異ってジャーナリストは、きわめて短い時間のうちに処理しなければならないことである。しかもこの職業は現実の政治的状況のなかにあって客観性を保たなければならない。このように困難な仕事の責任を持ったジャーナリストは、公衆に奉仕する公僕としての性格を、持っていると言わなければならないだろう。

もし社会科学の研究者が、このようなジャーナリストに学ばなければならないことがあるとしたら、それはやはり日々の世界の勁きに神経をとがらせている、彼らの現実感覚ではないだろうか。研究者の研究のサイクルは方法が厳密になれば自然に長くなる。現実との接触も薄くなる。しかし研究者とジャーナリストは、彼らの研究のサイクルが違うとはいえ、結局両者は、同じ科学的研究の方法を駆使する、経験的世界の研究者に他ならない。この両者が互いにその長所をとり短所を補い合う関係こそが、一つの社会の文化の創造には、欠くことのできない条件なのである。