2014年7月15日火曜日

議会制民主主義の否定

同じころ、小沢は非自民政権の首相候補として細川を説得する。そして一九九三年七月二三日、さきがけの武村正義と日本新党の細川護煕は、小選挙区比例代表並立制を中心とする政治改革のための政権樹立のよびかけを、共産党を除く各党に行う。ここで、社会党が歴史的な決断に踏み切る。

宮沢内閣時代、社会党は小選挙区制には、議会制民主主義の否定につながるという理由で強く反対してきており、妥協するとしても比例代表併用制というのが大勢だった。社会党に不利な小選挙区比例代表並立制を受け入れてでも、非自民政権を樹立すべきか、あるいは自民党を中心とした連立政権が誕生しても構わないのかどうか、党内の議論は割れた。結局、政治の大状況を無視して理想論ばかりいっていてもすべてを失うことになるという執行部の意見が通って、比例並立制を了承することになる(久保亘「連立政権の真実」)。

ここでいう大状況とは、たとえ社会党と共産党が小選挙区比例代表並立制に反対するとしても、自民党を含めて各党は、小選挙区制自体には賛成なので、自民党を中心とした政権が発足してしまうかもしれないが、それでもよいのかということである。

結局、当時の山花委員長は、不満だが、小選挙区比例代表並立制を受諾し、非自民政権を誕生させるという決断を行う。旧竹下派の分裂と羽田グループの自民党離党、武村の離党などに加えて、こうした一連の決断と偶然がなければ、細川政権の誕生はなかったということになろう。

しかし、一選挙区から一人しか当選者を出せない小選挙区比例代表並立制は、はたして社会党そのものの存在を脅かすことになった。それは、一九九三年の総選挙で七〇議席を確保した社会党が、新制度で行われた九六年の総選挙では、比例区を含めてわずか一五議席にとどまったことからも明らかである。社民党自身が新党結党に失敗したこと、社民党の政策が小選挙区で第一位の支持を受けるほどのものではなかったこと、民主党への移籍組が続いたこと、などを考慮したとしても、あまりの議席減であった。非自民政権のための決断は、結果的に、決断した政党を弱体化させたのである。