北京の中堅大学に通う女子大生・Dによると、彼女が在籍する学校ではデモ参加禁止の通達が出され、教師が6・4天安門事件を引き合いに出して、「行かぬことをすすめます」などと学生たちに言ったらしい。「中国では1万人の村で5000人が殺されてもデモなんてできなかった。おもしろそうだし、見に行きたかったけど、なんだかこわくて」との彼女の言葉はある種の若者の心理を代弁していたのではなかろうか。かくなる心理が存在する中で晴れてデモに参加することができたなら、記念撮影したくなるのもわからぬではない。そして、隊列に加わった参加者全員が熱心なわけでもなかった。冷やかしも多数含まれ、熱心な参加者の何人かが拡声器で「スローガンを叫ばないなら中国人じゃない。遊んでるんじゃないんだ!」と怒鳴るのが頻繁に聞かれた。後日知ったことだが、この隊列にはぼくの友人が2人加わっていた。2人ともデモがどんなものかを見たいということだけが、参加理由だった。
中関村でパソコンを運搬する出稼ぎ労働者が「ほら、邪魔だ、邪魔だ」と叫びながら隊列を遮ったことが何度かあったが、そのたびに周囲では笑いが漏れた。反米デモの時であれば、笑った者も含めて袋叩きに遭ったかもしれない。ただし、何かがあれば、冷やかし層もみなが拍手し、ぼくの友人たちがそうだったように、熱心な参加者に怒られた時はスローガンを叫んだ。それは反日というよりはノリとでも言うべきものだろう。もちろん、本当に日本に対して怒っていた人もいたに違いない。しかし、その数はただでさえごく少数に過ぎなかったデモ参加者の全員ではなかった。日本の戦争責任について語るとしたら、怒っている人たちはむしろデモの蚊帳の外にいた。ぼくはトイレや食事の時を除いてずっと先頭集団に付いていたが、日本大使館前と大使公邸付近を除いて、日本人の姿はあまり見かけなかった。明らかに日本人だとわかったのは、沿道から遠巻きに眺めていた商社マンふうの白髪の紳士たちで、ぼくも含めて多数の撮影者が先頭付近を取り巻いたが、中国語か英語のネイティブスピーカーばかりだった。
反米デモの時、アメリカ人数人が先頭集団の近くにいて、デモ参加者が彼らを取り囲み、激しい議論が応酬される光景を目にしたが、反日デモではどうだったか。大使館街を離れてしばらく経った頃、先頭集団と向き合って撮影していたぼくの携帯電話が鳴った。日本からだった。反米デモの光景がよみがえり、さすがに日本語を話すのはどうかと思ったぼくは、10メートルほど後ずさりした。拡声器でスローガンが叫ばれるので周囲はうるさく、この程度の距離があれば話し声は聞こえないはずだった。電話は日本のテレビ局のバラエティ番組製作チームからだった。ぼくは、タレントが横浜中華街を訪ねる番組の監修をやっており、それに関連する電話だった。ロケ先にいた彼らは反日デモが起きていることをその時点で知らず、「パンダの尿の色は緑色ですか?」という場違いな質問をぼくにぶつけてきた。
パンダの尿のことなど知らないし、状況が状況だったから、しどろもどろの対応をせざるを得なかった。ふと、あたりを見ると、先ほどまでの喧騒はなかった。これからデモ隊の進む方向について相談している最中で、デモは小休止の状態だった。ぼくの声は丸聞こえであり、隊列の何人かがぼくを指さして「あれは日本人だ」と言うのが聞こえた。反日デモの空気が反米デモと明らかに異質だと悟ったのはその時だ。ぼくを指さした連中は、デモが再開されるとぼくのことなど忘れたように行進に夢中になった。彼らにとってその時のぼくは、デモ中の1つのアクセサリーでしかなかったのだろう。暴力はおろか、論戦を交わそうとはゆめにも思わなかったに違いない。それどころか、電話の鴫る前、ぼくは中国人参加者と間違われて「スローガンを吽べ」などと度々注意を受けたが、日本人と知られたことで怒らなくなった人がいたほどだ。あくまでぼくだけのケースかもしれないが、少なくとも反米デモの緊迫感の中では起こり得ないことだった。
評論家の劉樽は反日デモを民間運動だととらえたが、彼らの主張に日本への理解不足が目立ったことや、6・4天安門事件に自ら遭遇した経験と比べて、反日デモは党の黙認があったから実現したにすぎなかったことを見て、「民間の運動としては中途半端だった」と感想を述べた。サッカー「反日」は、日本に関しての目新しい意見よりも、昔から庶民感情として根深くあるアンチ日本を、サッカーの国際試合という政治とは無関係な場で表明できたところに意味があった。それがただひたすら日本に反感を持って起きたものではなかったことは、熱心な参加者の中に意外にも日本が嫌いでない者が含まれていたことからもわかる。サッカー騒動が起きた時、疑問に思ったのは、なぜほんの少し前に行われた大相撲中国公演の際に騒ぎが起きなかったかである。日本への嫌がらせという意味では、相撲ほど日本を象徴するスポーツはないわけだし、はるかに効果的だったのではないか。しかし、「反日」の参加者にこの疑問をぶつけても明解な回答は得られなかった。
2015年9月2日水曜日
2015年8月3日月曜日
他官庁との競合・抗争
日ソ関係について二言しておけば、北方領土問題の解決を最重要課題とし、他の問題をすべてこれと絡めるいわゆる。政経不可分論の立場は、外務省が長年にわたって主張してきた政策である。ソ連の対外政策が硬直し、日本にとってソ連は脅威であるという主張が受け入れられやすい時代には、この主張は大きな影響力をもち、事実上日本の対ソ政策の根幹を形作ってきた。
しかし、ソ連政治に大きな変化が生まれ、ソ連(あるいはロシア)の脅威とは何かという肝心な点すらぼやけてきた今日、果たしてこれまでの政策を続けていくことは正しいのか、という問いかけをせざるを得なくなっている。しかし、外務省が自らその主張を改めることは期待薄だ。そこで、自民党内部から現状打開を主張する動きが生まれてきた。
戦前でも、外務省の政策、外交官の行動に対して、他の官庁から横やりが入ったことは稀ではない。特に、軍国主義が次第に日本の政治全体を覆うようになるにつれ、軍部が日本の対外政策に対して圧倒的な影響力をもち、外務省の力をそぐ結果になったことはよく知られている。
しかし、戦後における外務省と他官庁との関係は、格段に複雑になっている。しかも、日本外交の主な内容が経済問題になったことは、国内経済官庁との競合関係をいやが上にも増幅させてきた。外務省はこれまで、「外交のて几化」(外交問題は、外務省が国内を代表して対外的に折衝する唯一の政府機関であるという主張)を錦の御旗にして、他官庁が、その国内権限事項に関する外交問題を自前で処理することに対して徹底して抵抗してきた。
外務省の主張は、決して根拠のないものではない。外務省に限らず、どこの中央官庁にしても、その仕事の内容、権限、責任などの範囲に関しては、各々の「設置法」という法律があって、その中で定められている。外務省の場合、「外務省設置法」があって、その最初のところで、外交に関する事務は外務省が扱うとされているのである。
しかし、ソ連政治に大きな変化が生まれ、ソ連(あるいはロシア)の脅威とは何かという肝心な点すらぼやけてきた今日、果たしてこれまでの政策を続けていくことは正しいのか、という問いかけをせざるを得なくなっている。しかし、外務省が自らその主張を改めることは期待薄だ。そこで、自民党内部から現状打開を主張する動きが生まれてきた。
戦前でも、外務省の政策、外交官の行動に対して、他の官庁から横やりが入ったことは稀ではない。特に、軍国主義が次第に日本の政治全体を覆うようになるにつれ、軍部が日本の対外政策に対して圧倒的な影響力をもち、外務省の力をそぐ結果になったことはよく知られている。
しかし、戦後における外務省と他官庁との関係は、格段に複雑になっている。しかも、日本外交の主な内容が経済問題になったことは、国内経済官庁との競合関係をいやが上にも増幅させてきた。外務省はこれまで、「外交のて几化」(外交問題は、外務省が国内を代表して対外的に折衝する唯一の政府機関であるという主張)を錦の御旗にして、他官庁が、その国内権限事項に関する外交問題を自前で処理することに対して徹底して抵抗してきた。
外務省の主張は、決して根拠のないものではない。外務省に限らず、どこの中央官庁にしても、その仕事の内容、権限、責任などの範囲に関しては、各々の「設置法」という法律があって、その中で定められている。外務省の場合、「外務省設置法」があって、その最初のところで、外交に関する事務は外務省が扱うとされているのである。
2015年7月2日木曜日
組合指導部の統制
組合役員選挙への立候補を実力でかちとって以来、労働者たちは自信をもつようになっていた。彼らは職場をまわって討論を重ね、これらの不満と要求をひきだしたのである。とりわけ、有休についての不満が強かった。「自分の思い通りに使えない有休なんか、あったってなくたっておなじだぜ」「オレがこの前、風邪ひいて調子が悪かったと矢軽い仕事にまわしてくれって頼んだのに、あの野郎(職制)、ダメだっていいやかってよ」「それを組合にぶっつけようや」といったように討論がまきおこった。その結果がこの「要求書」である。職場で読みあげられると、職制が嘉山のところにやってきた。
「有休取得率を八〇パーセントに制限していることはない。他の要求は受けいれないけど、キミや東クンは有休を自由にとっているが、他のひとだって、そうしていいんだよ」当り前のこととはいえ、職制が有休の権利が労働者にあることを認めたのは未曾有のことである。組合指導部の統制をはずれて、職場で労働者たちが口をひらきはじめたのは、快挙というべきことだった。公然とした抵抗によって、職場の雰囲気が変りはじめたのである。
演壇中央に日の丸の国旗、左隣りの日産の社旗、そして右隣りに自動車労連旗。その下で、川又会長が挨拶し、石原社長が挨拶し、塩路労連会長が演説する。一九八一年一二月二六日、東京・歌舞伎座でおこなわれた創立四八周年式典の光景である。日産労使代表が前後して社貝のまえで演説するのは、創立記念日ばかりでなく、四月の入社式や八月の浅草・国際劇場での日産労組創立記念総会でも同様である。八月三〇日の組合結成日は休日となり、第二組合として出発した日産労組の誕生が、労使ともどもの祝辞によって飾られる。
ところが、八〇年末の日産創立記念式典で、塩路は、川又、石原をまえにしてこう述べてい「信頼というものをつくるには、汗も出るし、血も出るし、大変に重いものだと私は思います。そういう。信頼”というものを、日産の歴史を貫いていく大事な宝にしたいと考えて、私たちは追浜工場に。相互信頼の碑”を建てました。その信頼の碑が二〇年以上も経ったせいか、何故か歳月の重みに耐えかねているようにみえてなりません」歳月の重みに耐えかねている、と塩路がいう「相互信頼」の碑は、ブルーバードを送りだした追浜工場の正門わきにある。碑文は鮒宸愈初代自動車労連会長が起草し、揮毫はそのすぐそばに銅像となってたつ川又克二社長による。六二年三月にたてられたものである。
自己の権利を主張することも必要であり、そのために闘うことも華々しいが、闘争の嵐が吹きすさぶ憎しみの泥沼には、幸福の『青い鳥』は飛んで来ない。人智が進んで、いかに企業が近代化しようとも、その安定した基礎は所詮、昔ながらの人間関係にある。労使の相互信頼、それこそが日産の源泉であり誇りである」それが青い鳥なのであろうか、芝生におかれた碑を、あたかも抱きかかえるようにして、二羽の鳥がはばたく像がある。あるいは、この二羽が、労と使の代表を象徴しているのかもしれない。しかし、仔細にみると、それはたがいにそっぽをむいているのである。
「有休取得率を八〇パーセントに制限していることはない。他の要求は受けいれないけど、キミや東クンは有休を自由にとっているが、他のひとだって、そうしていいんだよ」当り前のこととはいえ、職制が有休の権利が労働者にあることを認めたのは未曾有のことである。組合指導部の統制をはずれて、職場で労働者たちが口をひらきはじめたのは、快挙というべきことだった。公然とした抵抗によって、職場の雰囲気が変りはじめたのである。
演壇中央に日の丸の国旗、左隣りの日産の社旗、そして右隣りに自動車労連旗。その下で、川又会長が挨拶し、石原社長が挨拶し、塩路労連会長が演説する。一九八一年一二月二六日、東京・歌舞伎座でおこなわれた創立四八周年式典の光景である。日産労使代表が前後して社貝のまえで演説するのは、創立記念日ばかりでなく、四月の入社式や八月の浅草・国際劇場での日産労組創立記念総会でも同様である。八月三〇日の組合結成日は休日となり、第二組合として出発した日産労組の誕生が、労使ともどもの祝辞によって飾られる。
ところが、八〇年末の日産創立記念式典で、塩路は、川又、石原をまえにしてこう述べてい「信頼というものをつくるには、汗も出るし、血も出るし、大変に重いものだと私は思います。そういう。信頼”というものを、日産の歴史を貫いていく大事な宝にしたいと考えて、私たちは追浜工場に。相互信頼の碑”を建てました。その信頼の碑が二〇年以上も経ったせいか、何故か歳月の重みに耐えかねているようにみえてなりません」歳月の重みに耐えかねている、と塩路がいう「相互信頼」の碑は、ブルーバードを送りだした追浜工場の正門わきにある。碑文は鮒宸愈初代自動車労連会長が起草し、揮毫はそのすぐそばに銅像となってたつ川又克二社長による。六二年三月にたてられたものである。
自己の権利を主張することも必要であり、そのために闘うことも華々しいが、闘争の嵐が吹きすさぶ憎しみの泥沼には、幸福の『青い鳥』は飛んで来ない。人智が進んで、いかに企業が近代化しようとも、その安定した基礎は所詮、昔ながらの人間関係にある。労使の相互信頼、それこそが日産の源泉であり誇りである」それが青い鳥なのであろうか、芝生におかれた碑を、あたかも抱きかかえるようにして、二羽の鳥がはばたく像がある。あるいは、この二羽が、労と使の代表を象徴しているのかもしれない。しかし、仔細にみると、それはたがいにそっぽをむいているのである。
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