実際に扶養や介護のための費用負担でもめるのは、親に相続すべき資産があるときよりも、親になんの資産もない場合のほうが、うんと多いはずである。
そうした場合は、民法ではなく税法によって、救済措置を用意すればいい。具体的には、兄弟均等の原則を超えて負担した場合に限り、超過負担をした子に対して、その割合と期間に応じて算出した一定額を、本人の相続に際して相続税の課税対象から控除する、つまり免税額をふやす、という手法が考えられる。
親のためにあえて通常より重い負担をしたのだから、この程度のインセンティブを与えるのは、福祉のための財政負担の縮減を意図して在宅介護を推進する国としては、当然の措置だろう。
当事者間の契約か家庭裁判所の調停と死亡届のコピーさえあれば、簡単に事実を証明できるのだから、手続き的には簡単である。子にも相続税の対象になるだけの資産がなければ、その子つまり孫の代までを限度として免税特権を継承できることにすれば、相続と扶養・介護をめぐる合理性と公正は、ほぼ確保できるのではないか。
民法の大改正は当面最大の課題だが、これはあくまでも一例にすぎない。こうした法制上の混乱は無数に存在している。それらを徹底的に洗い出して一本の抜本改正法で一挙に整頓することは、掛け声倒れの「政治改革」や「行政改革」、あるいは「経済構造改革」とは比較にならないくらい、日本の社会を変える。日本人の意識も変える。
そして豊かさを獲得した反面でこれ以上成長する余地が乏しくなった日本という国を、オトナの分別と責任感を供えた成熟した国につくり変えていくうえで、重大な意義と効果を持つことになるだろう。
高齢者、超高齢者の介護は、あくまで個別の問題である。一般論や平均値にはなんの意味もない。経済的にも生活面でも、基本的には自力で対応できる超高齢者もいる。どちらか一方しかできないのもいる。どちらもできないのもいる。
資産家から素寒貧まで、寝たきりから達者な人まで、よくできた人から超エゴイストまで、の天地の開きの中で、背負わなければならないのはその中のただ一点に位置している。過去の親子関係や兄弟仲、嫁と姑・小姑との関係もハネ返ってくる。
2016年1月5日火曜日
2015年12月2日水曜日
「同じで異なる」ことが実感される
新世紀を迎えた今日の世界で、文化はさまざまな形で問題となり、複雑に存在しています。
一方でグローバリゼーションのかけ声とともに、どこでも同じの画一的な文化が地球を覆う動きが急です。たとえば、アジアの主な都市では景観や生活様式がきわめて類似の形になりつつあり、人々の服装や食べる物も同じ傾向を強めています。
他方、日常生活で話される言葉や人々の行動、そして事物のとらえ方や価値の置き方には、それぞれの国や社会や地域の違いが強く反映されていて、外観は同じように見えて中身は大きく異にすることが多いのです。
日本から一歩外へ出れば、近隣国の首都であるソウルでも北京でも「同じで異なる」ことがすぐさま実感されるでしょう。ま几ロンドンからベルリンへ行くときにも、同じヨーロでハとはいいながら、本当に「同じで異なる」ことの多いのに驚かされます。かつてドイツの文化哲学者ベンヤミンは、日本語の「パン」を意味するブレッド(英語)、パン(仏語)、ブロート(独語)の間に越え難い意味的な差違があることを指摘しました。同じことは日・韓・中の言語と文化の間にも、たとえば「ごはん」や「麺」といった言葉の指すものの違いに示されるでしょう。
ソウルや北京を訪れても、人々の日常的な言動に示されるものの違いに驚くことがよくあります。北京での常宿の大ホテルの三階には「麺」と大きく看板を掲げたレストランがありますが、そこで中国各地の多様な麺に接してうれしい驚きを味わうとともに日本のソバやうどんと同じ料理に出会わないことにも驚きます。
「麺」差には東アジアの国々の間で大きなものがあるようです。食べるといっても、着るといっても、文化間の違いを感じます。色彩の用い方も、食べることの好みも、一日でもながくトれば大きく異なることが解ってきます。同じ「東アジア」とよばれても、その間には異文化が歴然として存在することがはっきりとしてきます。
一方でグローバリゼーションのかけ声とともに、どこでも同じの画一的な文化が地球を覆う動きが急です。たとえば、アジアの主な都市では景観や生活様式がきわめて類似の形になりつつあり、人々の服装や食べる物も同じ傾向を強めています。
他方、日常生活で話される言葉や人々の行動、そして事物のとらえ方や価値の置き方には、それぞれの国や社会や地域の違いが強く反映されていて、外観は同じように見えて中身は大きく異にすることが多いのです。
日本から一歩外へ出れば、近隣国の首都であるソウルでも北京でも「同じで異なる」ことがすぐさま実感されるでしょう。ま几ロンドンからベルリンへ行くときにも、同じヨーロでハとはいいながら、本当に「同じで異なる」ことの多いのに驚かされます。かつてドイツの文化哲学者ベンヤミンは、日本語の「パン」を意味するブレッド(英語)、パン(仏語)、ブロート(独語)の間に越え難い意味的な差違があることを指摘しました。同じことは日・韓・中の言語と文化の間にも、たとえば「ごはん」や「麺」といった言葉の指すものの違いに示されるでしょう。
ソウルや北京を訪れても、人々の日常的な言動に示されるものの違いに驚くことがよくあります。北京での常宿の大ホテルの三階には「麺」と大きく看板を掲げたレストランがありますが、そこで中国各地の多様な麺に接してうれしい驚きを味わうとともに日本のソバやうどんと同じ料理に出会わないことにも驚きます。
「麺」差には東アジアの国々の間で大きなものがあるようです。食べるといっても、着るといっても、文化間の違いを感じます。色彩の用い方も、食べることの好みも、一日でもながくトれば大きく異なることが解ってきます。同じ「東アジア」とよばれても、その間には異文化が歴然として存在することがはっきりとしてきます。
2015年11月3日火曜日
中国の新聞記者
記者が記事を書いても、どの記事をどのように採用するか、見出しをどのようにするか、新聞社にもそれなりの規則があると聞く。テレビにはテレビの規則がある。新聞記者は出世を望まないか? 否。新入社員は事実を報道する為に入社するのであろうが、時間と共に事実中心よりも出世や給料にも重点が移るのではないか。このようなことを率直に突っ込むので煙たがれた、ということもあるだろう。事実という点で、新聞とは異なるが一つ例を挙げる。第二次天安門事件(一九八九年六月)の際に、天安門広場で人民解放軍の戦車が広場のテント村を襲って人民をひき殺した、と報道されたことがある。結果的にBBCも一年と経たないうちにその事実は映像に写っていなかった。NHKも数年遅れてその事実を認めたという記事が小さく新聞記事に載った。
確かに映像だけを見ると戦車がテント村に突っ込んだ映像があり、その映像を見た人は当然、中にいる人を踏み潰したかに見える。あるいはそのように思い込む。その映像にはテントの周りにも人かおり、他のテントの中に人がいることも映っている。また、その他の地域で戦車と人民が戦ったという報道を同時に聞いている。人間の耳と脳は他の事実とあわせて見たものを判断している可能性が高い。映像とは恐ろしいものだ。私はここで映像に写っていなかったという事実をもって、その事実がなかったとは言っていない。ただその事実があれば、おびただしい血がその場に流れていたはずだ。その報道を私は耳にしていないだけだ。
新聞は本当に事実を伝える公器であるのか。事実を伝えるというのであれば、本当に中立か? 中立ならば何故いろいろな新聞社があり、その新聞社の考え方に違いがあるのだろうか。「事実」はだれがどのように見ても一つであり、同じであるはずだ。しかし、新聞記者はそれぞれ異なる会社に属している。事実の捉え方が会社によって異なっている。従って、同じ事実であっても、表現が異なる為、または同じ事実を新聞記者の経験や能力から違った角度から見るので読者は違った事実があるように見える。本当に事実が一つであれば、全ての新聞記者が書く事実は同じであるはずだ。しかし、それならば新聞社は何社もいらない。私の言いたいことは、新聞記者に気軽に事実の報道をしていると言っては欲しくないのだ。
中国の新聞記者は、国益の為に記者活動を行う。国益になる事実のみを報道する。政府が事実あるいは情報と判断した事実のみを報道する。日本の新聞記者と違うと言われている。従って、自分たちが国益の為に記事を書くので、そうではない社会の新聞の精神は理解できない。自分たちの判断から他国の新聞記者も同じと考える。即ち、中国の新聞記者は他国に出ればスパイ活動を実質行っている可能性が高い。その為に、中国は外国から来る新聞記者をスパイと思っている。従って、外国の記者の中国国内の活動を制限している。現在は、私か北京に常駐していた時代(一九八九年上一〇〇五年)と異なり、だいぶ開放されたが、当時は私たち民間の企業人のほうが自由に地方の企業に行けた。新聞記者はいちいち何処に行くか、どんな記事を書くのか申請して許可を取る必要があった。
いまではその許可もだいぶ自由になったが、一方、ビザの種類が新聞記者と私たち民間の企業人とは異なることになった。新聞記者も人間である以上、様々な考え方を持っている。日本ではそれが許されている。逆に言えば、様々な考え方を持っている以上、彼が報道する記事には彼の考え方が反映されると言うのが普通である。本当の意味での中立とは言えない、ということだ。私は、各種報道が中立であり、報道された事実が全てとは考えていない。(嘘があると言っているのではないが、最近は握造記事ややらせも摘発されているので、嘘の報道もあることになる。)二〇〇八年はギョウザ問題とオリンピックや四川省の大地震等、報道にはこと欠かなかったが、ギョウザ問題も中国のずさんなところを一方的に報道した。勿論、中国側にも落ち度はあるし、対応の仕方にも問題があるのは先刻承知の上だが、それにしても報道は偏向気味である。
確かに映像だけを見ると戦車がテント村に突っ込んだ映像があり、その映像を見た人は当然、中にいる人を踏み潰したかに見える。あるいはそのように思い込む。その映像にはテントの周りにも人かおり、他のテントの中に人がいることも映っている。また、その他の地域で戦車と人民が戦ったという報道を同時に聞いている。人間の耳と脳は他の事実とあわせて見たものを判断している可能性が高い。映像とは恐ろしいものだ。私はここで映像に写っていなかったという事実をもって、その事実がなかったとは言っていない。ただその事実があれば、おびただしい血がその場に流れていたはずだ。その報道を私は耳にしていないだけだ。
新聞は本当に事実を伝える公器であるのか。事実を伝えるというのであれば、本当に中立か? 中立ならば何故いろいろな新聞社があり、その新聞社の考え方に違いがあるのだろうか。「事実」はだれがどのように見ても一つであり、同じであるはずだ。しかし、新聞記者はそれぞれ異なる会社に属している。事実の捉え方が会社によって異なっている。従って、同じ事実であっても、表現が異なる為、または同じ事実を新聞記者の経験や能力から違った角度から見るので読者は違った事実があるように見える。本当に事実が一つであれば、全ての新聞記者が書く事実は同じであるはずだ。しかし、それならば新聞社は何社もいらない。私の言いたいことは、新聞記者に気軽に事実の報道をしていると言っては欲しくないのだ。
中国の新聞記者は、国益の為に記者活動を行う。国益になる事実のみを報道する。政府が事実あるいは情報と判断した事実のみを報道する。日本の新聞記者と違うと言われている。従って、自分たちが国益の為に記事を書くので、そうではない社会の新聞の精神は理解できない。自分たちの判断から他国の新聞記者も同じと考える。即ち、中国の新聞記者は他国に出ればスパイ活動を実質行っている可能性が高い。その為に、中国は外国から来る新聞記者をスパイと思っている。従って、外国の記者の中国国内の活動を制限している。現在は、私か北京に常駐していた時代(一九八九年上一〇〇五年)と異なり、だいぶ開放されたが、当時は私たち民間の企業人のほうが自由に地方の企業に行けた。新聞記者はいちいち何処に行くか、どんな記事を書くのか申請して許可を取る必要があった。
いまではその許可もだいぶ自由になったが、一方、ビザの種類が新聞記者と私たち民間の企業人とは異なることになった。新聞記者も人間である以上、様々な考え方を持っている。日本ではそれが許されている。逆に言えば、様々な考え方を持っている以上、彼が報道する記事には彼の考え方が反映されると言うのが普通である。本当の意味での中立とは言えない、ということだ。私は、各種報道が中立であり、報道された事実が全てとは考えていない。(嘘があると言っているのではないが、最近は握造記事ややらせも摘発されているので、嘘の報道もあることになる。)二〇〇八年はギョウザ問題とオリンピックや四川省の大地震等、報道にはこと欠かなかったが、ギョウザ問題も中国のずさんなところを一方的に報道した。勿論、中国側にも落ち度はあるし、対応の仕方にも問題があるのは先刻承知の上だが、それにしても報道は偏向気味である。
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