世界のボリュームゾーンに参入できるチャンスが目の前にあり、そのチャンスを最大限生かし、当社のインバータ技術を外に出すいわばオープン化戦略に打って出たのです。格力電器と組んで中国の国内標準を押さえることができればその先は世界標準へと続く近道だと判断しました。中国は2000年代後半ごろから、環境問題に対する取り組みを強化してきた。そのなかで中国の空調業界は中国メーカーが得意としてきたノンインバータで省エネ開発を加速するか、新たにインバータ技術に取り組むかの選択を迫られていた。ダイキンと格力電器との協業は中国市場に大きな変化をもたらした。中国の業界は一気にインバータに向かって動いたのである。格力との提携は日系企業が自らのコア技術を最大限許される範囲で提供し、中国市場とローカル企業の成長発展に寄与する点で非常に好意的に受け止められているようです。
政府・官公庁からも謝意を示され、官公庁とのパイプ毛太くなりました。我々は早くから中国政府や大手ローカルメーカーを中心にインバータ技術を推進するよう働きかけてきました。中国市場で最大のシェアを持つ格力が当社との提携によりインバータを選択したことは業界に大きな影響を与え、業界か一気にインバータに傾くことになりました。結果的に、デバイス市場でも、ノンインバータに集中していた部品がインバータにシフトするようになり、安くて品質の良い部品を確保できる効果も生まれました。
また、業界のハードルが当社が得意とする技術領域にまで高まったため、安価な商品は淘汰され、十分戦える価格レベルに引き上げられました。当社は「普及市場」「ボリュームゾーン」での拡販を加速させ、今までローカルメーカーの独檀場であった内陸部での拡大にも拍車をかけたのです。もし、当社がコア技術をオープンにしていなかったら、中国はノンインバータによる省エネを決めていたかもしれない。あるいは、当社が手をこまぬいている間に、ほかの同様の技術を持つ日系他社あるいは海外のメーカーと組んでインバータ化を進めていたかもしれません。当社が技術に対するこだわりを断ち切り、閉じられた自前主義を捨てて速やかに協業への舵を切ったことが良かったのだと思います。
インバータ技術を開示するにあたって、技術陣の意識を覆っていた『自前主義』から脱皮する必要があった。部品から製品までをグループ企業も含めて自前で製造、販売、管理する手法は日本企業の強さの源泉だったが、新興市場を開拓するときにはコスト競争を阻害する要因になっていた。新興国の購買力や嗜好に対応したコスト競争力のある製品・サービスをスピーディーかつ大量に供給できなければ、今後のグローバル競争で勝ち残ることはできません。これまで多くの日本企業が志向してきた垂直統合型の自前主義では限界があります。技術が成熟化し、主要な部品をどこからでも購入できる状況では、コア技術で他社に差をつける戦略も通用しにくくなっています。コスト競争力がカギを握る新興市場では水平分業体制の構築が不可欠です。
ただし、他社も同様な戦略をとってくるため、次に重要になるのが生産量の確保です。数がまとまれば、良い部品を安く買えるバーゲニングーパワーを発揮できるようになります。そこで、自前主義を捨て、技術のオープン化戦略に出たのです。技術のオープン化戦略の要諦は、市場全体が拡大することにあります。技術をオープンにすることで仲間を作る。技術そのものがいくらすぐれていても、技術をクローズにして仲間作りに失敗すれば独りよがりの技術として市場そのものが立ち上がらず、製品カテゴリーも消滅することが多い。そのことを日本企業は理解すべきです。
2015年3月3日火曜日
2015年2月3日火曜日
大幅な金融緩和の効果
大幅な金融緩和の効果は大きかった。国債発行残高4兆7000億ドル(93年末)。うち民間保有分は3兆5000億ドル。地方債が1兆3000億ドル、合計では6兆ドルとほぼGDP並みの「負債を抱いた経済」で、金利が半分以下になったのである。金利が半分になれば、発行される債券その他の利子も下がる。ということは、金融緩和以前に保有していた債券の価値がその分上昇することでもある。その上昇分は、保有していた銀行等の金融機関に大きな利益をもたらし、あるいは投資信託を通じて個人を潤した。
当時、米銀はなお、S&L(貯蓄信用組合)問題が代表するような不動産貸付などの不良債権に悩まされていたが、こうした債券のキャピタル・ゲインはこれらを償却し、体質改善を進めるための原資ともなった。
また低金利は株式高騰をもたらして同じく保有者を潤したが、とくに企業は時価発行を拡大させた。資金を直接、間接に株式にふり向けてきたのは、低金利下で生計維持に腐心していた定年退職者などが中心になったものと見られ、株価は、ダウエ業株平均で88年末の2000ドルから93年末には2500ドルヘと上昇したのである。
こうして低金利によって点火され、いわば助走態勢に入ったアメリカ経済を、本格的に持ち上げることになったのがドル安である。ドルは80年代後半、プラザ合意を受けて大幅に下落したが、90年代に入っても低落は継続した。対円の下落がもっとも際立っていたが、アメリカの主要貿易相手国の通貨に対する変動を加重平均した実効為替レートで見ると、ドルは90年以降の変動だけを見ても、93年には約3%、95年秋には約5%下落している。この実効為替レートの変動は、一国のモノ部門の生産活動に直接影響を及ぼす要因となる。
まず、製造業関連のさまざまな指標の好転については、次のようなプロセスを通じてであったと考えられる。ドル安は、輸出価格の上昇をもたらし、あるいは輸出そのものを促進する。逆に貿易相手国は手取りを確保するために価格を引き上げるので、輸入に対しては防遇的効果を及ぼし、まず、これがアメリカの鉱工業生産の上昇を促す。実際、生産指数の上昇がとくに目立ったのは、産業用機械・設備、電気機械、輸送用機器・部品の三部門で、このメカニズムをよく示している。
鉱工業生産の上昇は、労働生産性の上昇にとって好ましい条件をつくりだす。生産性の算出に際して分子となっている付加価値生産額は、基本的に鉱工業生産と相伴って増大するからである。なおその際、分母となるのは総労働時間であるが、この減少にはリストラがおそらく影響していたであろう。
名目賃金を労働生産性で割ったものが単位労働コストだから、労働生産性が上昇すれば単位労働コストの安定につながる。そして単位労働コストの安定は、リストラに対する米国民の恐怖と引き替えに、コストーインフレの芽を摘むこととなり、ドル安による輸入価格の上昇傾向を相殺、抑制することにもなるだろう。
このように、アメリカ企業の努力の成果と見られがちな、90年代に入っての製造業部門の復権の背後では、ドル安が実際には大きな役割を演じている。国内外の経済活動をすべてドル・ベースで考えればよいアメリカに、ドル下落は「見えない補助金」をもたらし、これが経済をすみずみまで潤すのである。
また、アメリカは85年以降の経常赤字の累計からすると、対外純債務が95年末には実質1兆ドルを超えていると見られるわけだが、経常赤字は不安を伴いつつも、結局はファイナンスされる。こうして対外債務が増加してもそれがドル建てであるかぎり、アメリカはドル安により、結果としてその対外価値を減じてゆく。
巨額にのぼる為替による「補助金」を手にした製造業・モノづくり部門の好調は、マネー部門へと波及し、両者の好循環が生まれた。証券市場の上昇は94年以降ピッチを増し、ダウ平均は97年に入ると8200ドルにも到達した。こうした株価の高騰は、資産効果による消費の底上げ、企業の低コスト資金調達による設備投資の刺激などでモノづくり部門を支援したのである。
当時、米銀はなお、S&L(貯蓄信用組合)問題が代表するような不動産貸付などの不良債権に悩まされていたが、こうした債券のキャピタル・ゲインはこれらを償却し、体質改善を進めるための原資ともなった。
また低金利は株式高騰をもたらして同じく保有者を潤したが、とくに企業は時価発行を拡大させた。資金を直接、間接に株式にふり向けてきたのは、低金利下で生計維持に腐心していた定年退職者などが中心になったものと見られ、株価は、ダウエ業株平均で88年末の2000ドルから93年末には2500ドルヘと上昇したのである。
こうして低金利によって点火され、いわば助走態勢に入ったアメリカ経済を、本格的に持ち上げることになったのがドル安である。ドルは80年代後半、プラザ合意を受けて大幅に下落したが、90年代に入っても低落は継続した。対円の下落がもっとも際立っていたが、アメリカの主要貿易相手国の通貨に対する変動を加重平均した実効為替レートで見ると、ドルは90年以降の変動だけを見ても、93年には約3%、95年秋には約5%下落している。この実効為替レートの変動は、一国のモノ部門の生産活動に直接影響を及ぼす要因となる。
まず、製造業関連のさまざまな指標の好転については、次のようなプロセスを通じてであったと考えられる。ドル安は、輸出価格の上昇をもたらし、あるいは輸出そのものを促進する。逆に貿易相手国は手取りを確保するために価格を引き上げるので、輸入に対しては防遇的効果を及ぼし、まず、これがアメリカの鉱工業生産の上昇を促す。実際、生産指数の上昇がとくに目立ったのは、産業用機械・設備、電気機械、輸送用機器・部品の三部門で、このメカニズムをよく示している。
鉱工業生産の上昇は、労働生産性の上昇にとって好ましい条件をつくりだす。生産性の算出に際して分子となっている付加価値生産額は、基本的に鉱工業生産と相伴って増大するからである。なおその際、分母となるのは総労働時間であるが、この減少にはリストラがおそらく影響していたであろう。
名目賃金を労働生産性で割ったものが単位労働コストだから、労働生産性が上昇すれば単位労働コストの安定につながる。そして単位労働コストの安定は、リストラに対する米国民の恐怖と引き替えに、コストーインフレの芽を摘むこととなり、ドル安による輸入価格の上昇傾向を相殺、抑制することにもなるだろう。
このように、アメリカ企業の努力の成果と見られがちな、90年代に入っての製造業部門の復権の背後では、ドル安が実際には大きな役割を演じている。国内外の経済活動をすべてドル・ベースで考えればよいアメリカに、ドル下落は「見えない補助金」をもたらし、これが経済をすみずみまで潤すのである。
また、アメリカは85年以降の経常赤字の累計からすると、対外純債務が95年末には実質1兆ドルを超えていると見られるわけだが、経常赤字は不安を伴いつつも、結局はファイナンスされる。こうして対外債務が増加してもそれがドル建てであるかぎり、アメリカはドル安により、結果としてその対外価値を減じてゆく。
巨額にのぼる為替による「補助金」を手にした製造業・モノづくり部門の好調は、マネー部門へと波及し、両者の好循環が生まれた。証券市場の上昇は94年以降ピッチを増し、ダウ平均は97年に入ると8200ドルにも到達した。こうした株価の高騰は、資産効果による消費の底上げ、企業の低コスト資金調達による設備投資の刺激などでモノづくり部門を支援したのである。
2015年1月6日火曜日
海外派遣の小手調べとしてのカンボジア派遣
自衛隊の活動は、そこにいたらない「後方における活動」にとどまるものだとして、従来見解との整合性をたもとうとした。だが野党側は、多国籍軍の実態そのものが「武力による威嚇」であり、発動されれば「武力の行使」となる。そうである以上、一体・分離の可分論は意味をなさず、かりに武器・弾薬をはずしたとしても、武力行使と一体にならない輸送協力などありえない、と手をゆるめなかった。結局、国連平和協力法案は、野党すべての反対で採決できず廃案となった。しかし、ここで新たな憲法解釈に向けた小手調べが行われた。すなわち「日本が攻撃を受けていない状況と地域」における自衛隊活動についての新たな理論づけである。
そうした場合、「武力行使と一体となるような協力は行えない」としつつも「ただし、実戦部隊と一体化していないとみなされる後方支援は合憲である」という解釈が打ち出された。「現に戦闘が行われている地域への輸送は行えない」といいつつヽ「あらかじめ戦闘が行われないと見通される地域への後方支援は可能である」という解釈である。こうした解釈は、「武力行使」の定義に、地域的限定ないし時間的分割をもちこむ仕分け合憲論といわれるものだが、その翌年提出された「PKO協力法」に生かされることになる。それだけでなく、九七年に決定された「新ガイドライン」(日米防衛協力のための指針)にも採り入れられ、「周辺事態法」(一九九九年)や、後述する「テロ対策特別措置法」(二〇〇一年)、「イラク特措法」に受けつがれていくことになる。憲法解釈に穿たれた蟻の一穴は、みるみる大きくなった。
そこでPKO法案にもどると、法案提出にあたり、政府側は湾岸戦争協力法案の失敗をふまえて、自衛隊派遣の目的を「国連決議にもとづく平和維持活動」、任務は「復興支援業務」(道路補修と橋の架け替えなど)に限定した。それをささえる、五つの原則からなる「基本方針」がもうけられた。すなわち、紛争当事者の間で停戦の合意が成立している、紛争当事者がPKO受け入れに同意している、特定の立場に偏ることなく中立の立場を厳守する、上記原則のいずれかが満たされない状況が生じた場合には、日本からの参加部隊は撤収できる、武器の使用は、要員の生命等の防護のために必要な最小限のものに限られる。
以上の「五原則」にもとづく歯どめをかけたうえで、日本のPKO参加がはじまった。肩書も「自衛官」でなく「国際平和協力業務」にしたがう「国際平和協力隊員」という別の名称が与えられた。かたちのうえでは別組織である。とはいえ一方で、「組織としての自衛隊の力を活用することが最適」との理由から、自衛隊員が「従前の官職を有したまま(協力)隊員に任用され」、また「派遣の必要がなくなった場合には、自衛隊に復帰するものとする」(PKO協力法第一二条)とされた。つまり帽子を二つにしただけで人間はおなじ。自衛隊と別組織といっても実質上は名目だけであった。
こうして一九九二年九月から一年間、第一次隊と二次隊の施設隊工兵)を中核とする各六〇〇人がカンボジアの土をふんだ。現地情勢は、ポルーポト派のパリ協定離脱表明により、条件維持に一時困難を生じたものの、政府は措置を適用せず、だから現地部隊に発動される事態にもいたらなかった。派遣部隊は道路補修を中断して、国民議会の総選挙を監視する各国監視員の安全確保と投票所の巡回にあたった。それらは活動計画にない任務だったので「道路偵察」の名目で実施された。期間中二人の死者(国連NGOボランティアの中田厚仁氏と文民警察である岡山県警の高田晴行警部補)を出したが、自衛隊員に死傷者はなかった。総選挙を円滑に行うための道路補修は予定どおり仕上げられた。
そうした場合、「武力行使と一体となるような協力は行えない」としつつも「ただし、実戦部隊と一体化していないとみなされる後方支援は合憲である」という解釈が打ち出された。「現に戦闘が行われている地域への輸送は行えない」といいつつヽ「あらかじめ戦闘が行われないと見通される地域への後方支援は可能である」という解釈である。こうした解釈は、「武力行使」の定義に、地域的限定ないし時間的分割をもちこむ仕分け合憲論といわれるものだが、その翌年提出された「PKO協力法」に生かされることになる。それだけでなく、九七年に決定された「新ガイドライン」(日米防衛協力のための指針)にも採り入れられ、「周辺事態法」(一九九九年)や、後述する「テロ対策特別措置法」(二〇〇一年)、「イラク特措法」に受けつがれていくことになる。憲法解釈に穿たれた蟻の一穴は、みるみる大きくなった。
そこでPKO法案にもどると、法案提出にあたり、政府側は湾岸戦争協力法案の失敗をふまえて、自衛隊派遣の目的を「国連決議にもとづく平和維持活動」、任務は「復興支援業務」(道路補修と橋の架け替えなど)に限定した。それをささえる、五つの原則からなる「基本方針」がもうけられた。すなわち、紛争当事者の間で停戦の合意が成立している、紛争当事者がPKO受け入れに同意している、特定の立場に偏ることなく中立の立場を厳守する、上記原則のいずれかが満たされない状況が生じた場合には、日本からの参加部隊は撤収できる、武器の使用は、要員の生命等の防護のために必要な最小限のものに限られる。
以上の「五原則」にもとづく歯どめをかけたうえで、日本のPKO参加がはじまった。肩書も「自衛官」でなく「国際平和協力業務」にしたがう「国際平和協力隊員」という別の名称が与えられた。かたちのうえでは別組織である。とはいえ一方で、「組織としての自衛隊の力を活用することが最適」との理由から、自衛隊員が「従前の官職を有したまま(協力)隊員に任用され」、また「派遣の必要がなくなった場合には、自衛隊に復帰するものとする」(PKO協力法第一二条)とされた。つまり帽子を二つにしただけで人間はおなじ。自衛隊と別組織といっても実質上は名目だけであった。
こうして一九九二年九月から一年間、第一次隊と二次隊の施設隊工兵)を中核とする各六〇〇人がカンボジアの土をふんだ。現地情勢は、ポルーポト派のパリ協定離脱表明により、条件維持に一時困難を生じたものの、政府は措置を適用せず、だから現地部隊に発動される事態にもいたらなかった。派遣部隊は道路補修を中断して、国民議会の総選挙を監視する各国監視員の安全確保と投票所の巡回にあたった。それらは活動計画にない任務だったので「道路偵察」の名目で実施された。期間中二人の死者(国連NGOボランティアの中田厚仁氏と文民警察である岡山県警の高田晴行警部補)を出したが、自衛隊員に死傷者はなかった。総選挙を円滑に行うための道路補修は予定どおり仕上げられた。
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