委託者がおカネを信託するときに、その運用を細かく定めるものをいいます。この場合信託会社は、信託の契約をするときにお客にいろいろ助言はするが、いったん信託を引き受けてしまえば、あとは委託者の指図した通りに運用するだけです。たとえば、Aという会社に金利は年七%で三年間おカネを貸すとか、Bという会社の株式を一株三百円で一万株買うといったように運用方法が決められているので、信託会社はその通りに運用しなくてはなりません。
そして銀行などの金融機関の金利は、法律や申し合わせによって大体一定していまナが、特定金銭信託はこの制限外になっていて、うまくいけばもうけも大きい代わりに、指図通りに運用して損しても、信託会社には責任がないことになっていますし、万一元金が返らない場合は、運用した形のままで(たとえば貸付金債権とか株式とか)、受益者に引き渡して信託を終了することも認められています。
したがって特定金銭信託の場合、信託財産の運用がうまくいくかどうかは、全く委託者がどんな指図をするかにかかっており、信託会社は助言をする程度で活躍する余地はほとんどありません。このため、特定金銭信託を利用しようとする人は、貸し出しとか株式投資についてかなりの知識と経験が要り、運用先ともある程度話し合いがっいていることが必要です。このような事情から、特定金銭信託を利用するのは、戦前からごく少数の人に限られていました。
ところが、昭和五十五年になって金銭の信託について法人税法基本通達で有価証券の簿価分離が認められたことから、各企業や金融機関が余資運用のために急速に特定金銭信託を利用し始めるようになりました。簿価分離とは、委託者がもともと持っている有価証券と、金銭の信託の中で持っている有価証券が同一銘柄であっても簿価を通算する必要はなく、委託者は金銭信託の受益権として会計処理すれば良いということです。
これによって、金銭の信託を使えば機動的な有価証券投資ができることとなり、運用能力のある生命保険会社や都市銀行などの機関投資家の問で有価証券投資を目的とする大口の特定金銭信託の利用が一気に進んだものです。これが新聞の証券欄で「株式特金」さらに略して「株特」といわれるものです。さらにこの特定金銭信託を応用したものとして、券面より安い価格で買った債券の償還差益を前倒しで会計処理し、毎年の利回りを上げるもの(アキュミュレーション)や、委託者が運用の指図権を投資顧問会社に委任するものなどもあります。
2014年6月16日月曜日
学ぶべき現実感覚
もちろんこれに対してジャーナリズムは客観性よりも、批判と解釈とを重視すべきであるという意見もある。それは客観的中立性という、ジャーナリズムの政治的責任を批判して、むしろ変革のために政治に積極的に介入することを理想とする考えである。しかしながらこのような政治的ジャーナリズムは、大規模なマスーコミュニケーションのメディアとして、止まろうとする限り結局、客観性という職業規範に戻らざるを得ないであろう。
すなわち今日のマス・メディアは、意見の異なる多数の読者や視聴者を相手にしなければ経営が成り立たない。従ってマスーメディアは多くの異なる読者が、比較的客観的であると考えるような内容を持だなければならないであろう。またメディアの流すニュースが、現実をゆがめるものである場合、その現実に直接触れることのできる人々は、客観性をゆがめたジャーナリズムを二度と信用しないであろう。こう考えると現代の社会において、唯一の可能なジャーナリズムの形態は、やはり科学的方法に基づいた客観的報道という、ゲイトキーパー型のジャーナリズムということになる。
こう考えると社会科学とジャーナリズムとの問には、方法論上の根本的な相違はないと言わなければならない。両者の間の相違は客観的な報道という厳しい仕事を、大学の研究者と異ってジャーナリストは、きわめて短い時間のうちに処理しなければならないことである。しかもこの職業は現実の政治的状況のなかにあって客観性を保たなければならない。このように困難な仕事の責任を持ったジャーナリストは、公衆に奉仕する公僕としての性格を、持っていると言わなければならないだろう。
もし社会科学の研究者が、このようなジャーナリストに学ばなければならないことがあるとしたら、それはやはり日々の世界の勁きに神経をとがらせている、彼らの現実感覚ではないだろうか。研究者の研究のサイクルは方法が厳密になれば自然に長くなる。現実との接触も薄くなる。しかし研究者とジャーナリストは、彼らの研究のサイクルが違うとはいえ、結局両者は、同じ科学的研究の方法を駆使する、経験的世界の研究者に他ならない。この両者が互いにその長所をとり短所を補い合う関係こそが、一つの社会の文化の創造には、欠くことのできない条件なのである。
すなわち今日のマス・メディアは、意見の異なる多数の読者や視聴者を相手にしなければ経営が成り立たない。従ってマスーメディアは多くの異なる読者が、比較的客観的であると考えるような内容を持だなければならないであろう。またメディアの流すニュースが、現実をゆがめるものである場合、その現実に直接触れることのできる人々は、客観性をゆがめたジャーナリズムを二度と信用しないであろう。こう考えると現代の社会において、唯一の可能なジャーナリズムの形態は、やはり科学的方法に基づいた客観的報道という、ゲイトキーパー型のジャーナリズムということになる。
こう考えると社会科学とジャーナリズムとの問には、方法論上の根本的な相違はないと言わなければならない。両者の間の相違は客観的な報道という厳しい仕事を、大学の研究者と異ってジャーナリストは、きわめて短い時間のうちに処理しなければならないことである。しかもこの職業は現実の政治的状況のなかにあって客観性を保たなければならない。このように困難な仕事の責任を持ったジャーナリストは、公衆に奉仕する公僕としての性格を、持っていると言わなければならないだろう。
もし社会科学の研究者が、このようなジャーナリストに学ばなければならないことがあるとしたら、それはやはり日々の世界の勁きに神経をとがらせている、彼らの現実感覚ではないだろうか。研究者の研究のサイクルは方法が厳密になれば自然に長くなる。現実との接触も薄くなる。しかし研究者とジャーナリストは、彼らの研究のサイクルが違うとはいえ、結局両者は、同じ科学的研究の方法を駆使する、経験的世界の研究者に他ならない。この両者が互いにその長所をとり短所を補い合う関係こそが、一つの社会の文化の創造には、欠くことのできない条件なのである。
2014年6月2日月曜日
金日成主席の死去
金日成主席の死去より数年早い時点から深刻化したらしい北朝鮮の食糧事情に関しても、飢餓寸前だという情報がここ数年にわたって伝えられ、それにしては北朝鮮の国内で大量の餓死者が出ているという、推測はあっても確たる情報もなく、国連や米国、韓国などが行っている食糧援助も、それを必要としている一般国民にちゃんとわたっているという話もあれば、援助食糧は全て軍の戦時備蓄に回されているという情報もあり、実状は定かではない。
時折、国連や外国政府関係者、外国メディアが北朝鮮の国内に入る機会はあっても、彼らが見聞できるのは、ごく一部の場所、人、施設などで、その情報はきわめて断片的である。つまるところ、北朝鮮国内の実状に関しては、膨大な数のジグソーパズルのほんの少しのヒースを、あちこちにばらばらに置いている状態にすぎず、それで全体を把握するのはとうてい無理という状況にある。
このような、内情がよく分からない場合、その国が対外的に何をやってきたかという実績から、今後の進む方向を推測する方法が採られるが、北朝鮮の過去の外交実績は、常識では計り知れない部分が非常に多い。一九八三年のビルマ(現ミャンマー)における、韓国全斗煥大統領一行の爆殺計画(東南アジアで唯一の親北朝鮮国であったビルマを敵に回してしまった)や、一九八七年の大韓航空機爆破事件(これでソウ万オリンピックが中止に追い込めると考えたらしい)、そして一九九六年九月の小型潜水艦による偵察員上陸事件(潜水艦が座礁して発覚したが、その潜水艦は北朝鮮の羅津・先鋒自由経済貿易地帯への外国投資を促す国際会議を開催している最中に出撃している)などは、いずれも北朝鮮はその関与を否定したり、単なる事故であると主張するものの、このような行動を実行する理由が理解に苦しむ。要するに、北朝鮮は何をするか分からない、と考えざるを得ない。
これは、安全保障にとって最も好ましくない状況である。情報が無いうえに、相手の行動の常識的予測ができないとなると、周辺諸国は常に最悪の状態を想定して備えておかねばならない。その警戒が杞憂であろうがなかろうが、警戒されている当の国から見れば、周辺諸国が戦闘態勢を整えていると映り、その国も警戒して、いっそう軍備を増強し、戦闘準備を整えるという悪循環に陥りかねない。
こうなると「卵が先か鶏が先か」の議論ではあるが、相手の出方、状況が分からない以上、最悪の場合を想定するのは安全保障の見地からは当然である。「だから、相手が警戒しないように、こちらがまず最悪の事態を考えることをやめるべきだ、そして、まずこちらから軍備を解くべきだ」というのは無責任な議論で、それで相手が無理難題を押し付けてこないという保証は何もない。「北風か太陽か」ではなく、最悪の状態に備えながら太陽を当てるようにするというのが、安全保障と外交の役割であろう。
時折、国連や外国政府関係者、外国メディアが北朝鮮の国内に入る機会はあっても、彼らが見聞できるのは、ごく一部の場所、人、施設などで、その情報はきわめて断片的である。つまるところ、北朝鮮国内の実状に関しては、膨大な数のジグソーパズルのほんの少しのヒースを、あちこちにばらばらに置いている状態にすぎず、それで全体を把握するのはとうてい無理という状況にある。
このような、内情がよく分からない場合、その国が対外的に何をやってきたかという実績から、今後の進む方向を推測する方法が採られるが、北朝鮮の過去の外交実績は、常識では計り知れない部分が非常に多い。一九八三年のビルマ(現ミャンマー)における、韓国全斗煥大統領一行の爆殺計画(東南アジアで唯一の親北朝鮮国であったビルマを敵に回してしまった)や、一九八七年の大韓航空機爆破事件(これでソウ万オリンピックが中止に追い込めると考えたらしい)、そして一九九六年九月の小型潜水艦による偵察員上陸事件(潜水艦が座礁して発覚したが、その潜水艦は北朝鮮の羅津・先鋒自由経済貿易地帯への外国投資を促す国際会議を開催している最中に出撃している)などは、いずれも北朝鮮はその関与を否定したり、単なる事故であると主張するものの、このような行動を実行する理由が理解に苦しむ。要するに、北朝鮮は何をするか分からない、と考えざるを得ない。
これは、安全保障にとって最も好ましくない状況である。情報が無いうえに、相手の行動の常識的予測ができないとなると、周辺諸国は常に最悪の状態を想定して備えておかねばならない。その警戒が杞憂であろうがなかろうが、警戒されている当の国から見れば、周辺諸国が戦闘態勢を整えていると映り、その国も警戒して、いっそう軍備を増強し、戦闘準備を整えるという悪循環に陥りかねない。
こうなると「卵が先か鶏が先か」の議論ではあるが、相手の出方、状況が分からない以上、最悪の場合を想定するのは安全保障の見地からは当然である。「だから、相手が警戒しないように、こちらがまず最悪の事態を考えることをやめるべきだ、そして、まずこちらから軍備を解くべきだ」というのは無責任な議論で、それで相手が無理難題を押し付けてこないという保証は何もない。「北風か太陽か」ではなく、最悪の状態に備えながら太陽を当てるようにするというのが、安全保障と外交の役割であろう。
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